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夜毎の夢 夜毎の愛(ライリュウ)

夢を見ていた。

その夢は、あの事故以来幾度となく繰り返され、半ば半分悪夢と化していた。だがその夢に、いつからだろう。春の陽射しの様な柔らかな暖かい温もりを感じる様になったのは。

そしてその頃からだろうか、腕に痛みを感じなくなったのは。

認めたくはなかったが、己にとってその暖かな温もりの大本がいったい誰なのか、充分過ぎる程判っていた。


リュウセイ・ダテ。


それが俺にとって、昏く鬱々とした暗闇の中の悪夢から一条の光りを灯し、そこから救い出してくれた男の名前だった。


その日はいつもの様に、二手に分かれアーガマの周囲半径15キロ周辺の偵察を兼ねた哨戒飛行を、リュウセイの搭乗するR?1と共に行っていた。

「・・・なあライ、俺がこんな事言うのは、何かお門違いなのかもしれないけどさ、も少しみんなとうち解けてみねぇか?」

モニターをオフにした状態のまま、リュウセイは呟く様にぽつりと俺へ話しかけてくる。リュウセイやアヤに対しては普段と変わりない態度で接していたが、他のメンバー即ち、アーガマに搭乗している連邦軍と民間人の混成チームに対しての俺の態度の事を、リュウセイは言っているのだろう。

「・・・コバヤシ大尉も、そう言っているのか?」

わざと・・・と言う訳ではないが少々遠回しな口調で、俺はリュウセイに向かって自分に対する問い掛けを非難するニュアンスを匂わせてみた。

「なんであんたは、そんな言い方しか出来ないかなあ。そりゃ、俺だって、思ってる事を上手く喋れる方じゃねえけど、ライと喋ってるとまだ俺の方がマシな様な気がするぜ。」

音声オンリーの通信手段で会話していたのだが、今のリュウセイの口調から、彼がどんな顔をして喋っているか手に取る様に判る。

差ほど長いつき合いではないが、短期間の間にリュウセイの行動パターンや思考パターンは大体に於いて読める様になっていたのだ。 

だがリュウセイは知らない。 

そんな彼の存在こそが、ライにとって心の支えになっているのだと。

自分を貶めている訳ではないが、あの事故からリュウセイに出逢うまでは、実際の所、生きる屍の様だったかもしれない。

生きてゆく自信も、意義も失い、欠けてしまった肉体の一部にばかり心を捕らわれ心を閉ざし、無くなってしまった左手で目を塞いでいた。

後ろを向いてしまったライを励まそうと、あの事故の起きた現場にいた人物の一人は本人自身も酷く重傷であったのにも関わらず、励まそうとしてくれたのか幾度となくライの部屋を訪れて来てくれていたのだか、ライにはどうしても彼に会う事が出来ず部屋の扉も心の扉も閉ざしていた。

そう言えば、雰囲気こそ違え、醸し出しているものは、あの上官とリュウセイは似ている部分が在るような気がする。 

ライはふと、リュウセイの声を聞きながらそんな事を考えてしまった。

「・・・何を考えているんだ・・・俺は。不謹慎な。」

 任務中だと言うのにも関わらず、現在の動向に関係のないを考えてしまったライは、誰も見ていないのに何故か気恥ずかしい思いに捕らわれてしまった。 リュウセイはリュウセイなのだ。 

誰も代わりにはなれないし、誰の代わりにもならない。 

勿論、利害関係を考えれば、どう考えてもリュウセイが自分にとって有益な存在だとはとても思えない。だが、リュウセイなのだ。

どんな言葉で飾り立てても、それらは意味を為さない。

しかし、それを言葉や態度で顕すのはライにとって決して容易な事ではなく。

「・・・おーいライ? 返事しろよなー。寝てんのかー?」

音声オンリーのモニターから、何の応答もないライに対して不審に思ったのかリュウセイが不安げな声色で問い掛けてくる。

そんなリュウセイの言葉が、思案していたライの耳に飛び込んで来た為、

「・・・っ! 寝てなどいない。少々考え事をしていただけだ。それよりリュウセイ、どうもこの辺りはミノフスキー粒子の濃度が高い様だ。その為有視界飛行の状態で索的しなければならないが・・・そっちの様子はどうだ。」 

と、まるで自分の今の気持ちを誤魔化すかの様な口調で言い放つ。

実際、モニターをONにしていなくて正解だった。 

だが感の良いリュウセイにはどうしても、対応の不自然さを感じ取られてしまったらしく、

「・・・何かあったのかライ。何ならオレでもよけりゃ相談に乗るけど・・・って、そーいうキャラじゃねえか、おまえと違ってオレは。」 

リュウセイらしくない、少し震え気味な声で話し掛けて来た。 

端から見れば、普段のリュウセイはスパロボおたくで少しばかりお調子者の、しかし普段から総てに懸けて全力疾走するタイプの人間に見える。

だがそれは表面上の事でしかなく、本当は豊かな感性と、物事の知己を瞬時判断する事の出来る繊細な面をも持ち合わせているのだ。そんなだからこそ、ライはリュウセイに惹かれたのかもしれない。 

自分が到底持つ事の出来ない純粋な、真っ直ぐな心。 

その純粋で真っ直ぐな心を映し出しているかの様な、暖かで透明な色合いを持つ明るい榛色の瞳。多分死ぬまで言葉にする事はないだろうが、そのリュウセイの総てが自分にとって憧憬たる存在であるのだ。 

そう。リュウセイさえ居れば、自分はもう二度と心の奥底にある昏い闇色をした世界に囚われる事はないだろう。

だからもし、その世界に再び戻ってしまう様な事が起きてしまったとしたら、自分は二度とこの世界を愛する事はないだろうし、視るものすべてが敵に見えてしまうだろう。 

「・・・リュウセイに心配される程の事ではない。それより・・・。」 

敵機を発見したライは、冷静な口調でリュウセイに向かって敵が接近しつつある事を伝えた。



あの悪夢を視なくなってから、ライの夢には度々リュウセイが現れる。

それは、時に哀しみに沈む心を導いてくれる担い手であったり、ただそこに在るだけの存在であったりと、出現するパターンは様々だった。 

しかしひとつ言える事は、それらは総てライの心の中に何か蟠りや支えるものがあった時に夢となって現れるのだ。 

勿論それは、所詮夢でしかないのかもしれない。 

ひとは、そんなに便利な生き物ではないのだから。 

幾らリュウセイが、ひととして考えれば非常に優れた遺伝子を保有していたとしても、それは飽くまでもDNAの配列上での事だ。 

本人からすれば、偶然の産物に過ぎないだろう。

その偶然の産物によって本来なら体験しなくてもいい様な闘いを強いられ、苦しめられたのだからそう考えて当然だろう。普通は、そう考える。 

だが、リュウセイは違った。 

いつも前向きで、苦しくても健気なほど上を向いていた。


本当は辛いだろうに。本当は哀しいだろうに。

何故そんなに笑っていられるのか。 

何故そんなに前を向いていられるのか。 

自分を励ましてくれているはずのリュウセイの夢は、何故か哀しくて。

夜毎その想いは募ってゆくばかり。

だからライは思う。 

夜毎夢に現れ、自分を助けてくれたリュウセイに、今度は自分が手を差し伸べるべきなのだと。夜毎の夢に応えるには、夜毎の愛で支えるべきなのだと。 


だからーーーリュウセイ。 

俺はおまえを助ける。この、生命に代えてもーーー。
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雨の降る日は天気が悪い(シュウマサ)

コンコン。

雨音に紛れ、小さく。本当に、耳をそばだてなければ聞こえない程、微かなノックの音に気が付いたシュウは、ペンを走らせていた手を止め、静かに立ち上がる。

そして無言のまま、ドアの側へ歩み寄るとそっとドアを開けた。

「・・・。」

そこには俯き、ずぶ濡れのまま立ち尽くしているマサキがいたのだ。 多分、ここへ来るまでに身体が冷え切ってしまったのだろう。

普段は少女の様に薔薇色染まっている口唇が、酷く青ざめていた。

「・・・いったい、どうしたのです?」

その表情から、何事かが起きただろう事を察したシュウは、自分が羽織っていたローヴを脱ぎ、マサキの肩へとそっと掛ける。

「お入りなさい・・・こんな所にいつまでも居たら、風邪を引きます。」

いつもなら尽くシュウの言葉に反応し、抵抗を試みる筈のマサキだったが、今日は彼に促されるまま部屋へと入って行く。

「・・・何も、聞かないのか?」

部屋に通されたマサキは俯いたまま、勝手知ったる他人の家の言葉通り、すたすたと奥へと進んで行き、リビングにあるソファの所まで来ると、くるりと向きを変え背後からゆっくりと付いてくるシュウに向かってそう言うのだった。

するとシュウは、

「・・・聞いて欲しいのですか? 私にはとてもそうは思えないのですけれど。」

と目を細め、薄く笑みを浮かべながら、マサキの傍へと歩み寄って行く。

その表情は普段の彼とは異なり、本当に裏のない、心の底からマサキの事を気に掛けている・・・といった表情だった。

「・・・っ」

そんなシュウに対しマサキは面を上げ、突然堰を切ったかの様に言葉を吐き出す。その姿は、まるで激情に翻弄されているかの様で、自分の感情を制御出来ないでいる様だった。

「・・・なんで・・・っ! なんで、てめーは・・・そんなに優しーんだよっ!普段はあんなに、ひとの揚げ足を取るのが上手って、いじわるで、どーしよーもないくらい性格がねじ曲がってる癖に、なんで俺がこうして何にも言わないでやって来ても、何事もなかったように平然と受け入れるんだよっ! おかしーじゃねーかっ!」

シュウからすれば、今のマサキの科白は全くと言って良いほどお門違いのものだっただろう。けれどシュウは、そんなマサキの態度に平然とした様子で、

「・・・けれどこうしてあなたは来た。と、言うことは、あなた自身、こうして私が何も問わず迎え入れる事を前提に来たのではないですか?」

と、言い放ったのだ。

「・・・シュウ・・・てめーは本当に狡いよ・・・俺がここに来るしかないって判っててそーいうんだから・・・。」

口唇を噛み締め、マサキは呟く様に言葉を吐き捨てる。

実際、彼自身も十二分に判っていた。こうしてシュウの元へ訪れては自分の言いたい事ばかり言って、我が儘や八つ当たりをする自分がどれだけ自分勝手な行為をしているか。

シュウがそれを享受するだけの懐がある事を知っているのを、自分は利用しているのだと。

「・・・くすっ。本当にマサキは真っ直ぐですね。だから私はこうしてあなたに惹かれるのですが・・・。」

けれどそれ以上にシュウはマサキを利用している。

決して本人に気付かせない様に。

「さ、身体が冷え切っていますよ。シャワーでも浴びて、冷えた身体を暖め乾いた服に着替えてから話の続きをしましょう。」

まだ何かを言いた気だったマサキの肩を軽く叩き、バスルームへ行く様にと促す。何かを告白するにしても、何も語らないにしても、冷え切ったままでは身体に毒だ。シュウはそう判断した。


外はまだ雨が激しく降り続いている。

こんな天気の日にマサキが自分を訪れる事など、今まで無かった事だ。

感情の起伏が激しく、どちらかと言えば好き嫌いをはっきり言葉にするタイプのマサキが、言葉を濁す程「雨の日」は彼にとって微妙な日なのだろう。

ただ以前一度だけ、窓に打ち付ける雨の滴を指で伝わせながら『余り、雨は好きじゃない』と呟いていたのを聞いた事があった。

その時は何気なく聞いていた為、心に留める事はなかったのだが、こうしてマサキが雨の日に訪れる事を予測できていたら、シュウはあの時彼の言葉をちゃんと聞いておくべきだったと、少しばかり後悔していた。

「・・・シュウ。」

バスルームから出てきたマサキは、大きめのバスタオルで身体を包み、まだ雫が伝い落ちるほど濡れた髪のままだった。

その姿は、まるで雨の日に捨てられた子猫の様で、今にも生命の灯火が消えてしまいそうなほど頼りなげな姿だった。

「ちゃんと身体を拭いて来なくてはいけませんね。折角シャワーを浴びて身体を暖めたのですから。」

そう言いながらシュウは、側にあるクローゼットからタオルを取り出すと、濡れたままのマサキの髪を拭くために、それをそっと頭の上へと被せ、軽く拭き始めた。

優しいタッチでマサキの髪を拭くシュウの指は、とても男性のものとは思えないほど細く、丁寧な仕草で柔らかくしなやかに動く。

「・・・シュウ、俺・・・。」
互いの身長差はそれ程ではなかったが、多少見下ろされる状態だったマサキは、まだ濡れて乾いていない前髪の間から上目遣いで、何か言いた気な眼差しをシュウに向ける。

しかしシュウは小さく頭を振ると、

私はそれほど野暮ではありません。過去に・・・雨の日に・・・マサキに何があったのかなど興味もありませんし・・・ね。ですから、あなたは何も言わず、猫の様に気紛れにここへ訪れればいいのです。」

そう呟く様に言いつつ、ふと前髪で僅かに隠れるマサキの真っ直ぐな瞳を見たくなり、そっと指先で邪魔な前髪を払い除ける。

まだ少年の名残が多少見受けられる、ほんのりと丸みを帯びた面立ちに、意志の強さが窺い知れる眉根と大きな瞳。

そしてその強い筈の意志が揺らいだ時に見せる、震える睫毛。

その総てが、シュウには愛おしかった。

「・・・マサキ。」

吐息の様に甘い声色で、シュウはマサキの名を呼ぶ。

一方マサキは、その痺れる様な声にぴくりと身体を震わせたかと思うと、無言のまま静かに、ゆっくりと瞼を閉じた。

「・・・今日は・・・帰しませんから・・・ね。」

シュウはそう言って優しく笑みを浮かべると、そっとマサキの瞼に口接けをする。
 

まだ、雨は降り続いていた。

戦場にて


「ラグランジュ・ポイント、L3付近にて大規模な現在戦闘が行われており、支援要請が届いた。グルンガストのイルムガルト中尉以下、オクトパス小隊は至急応援に向かってくれたまえ」

簡潔な指示の下、イルムのグルンガストと共に、オクトパス小隊がデッキから艦外へと発進してゆく。

『こちらグルンガスト、イルムガルト・カザハラ中尉! 俺はこのままこの宙域に残り正面から来る奴らを迎撃して行く。オクトパス小隊は、先行して回り込む様な形で散開し各個敵を迎撃に向かう。こんな状況じゃ、作戦らしい作戦なんか効き目はないだろうから、後は各自の判断に任せる。いいなっ!』

イルムはそう言って、グリップを握り締める。
自分が指揮官を務める器ではないことぐらい、充分判っていた。
だが、この長きに渡る闘いで、実地訓練もなく戦場に赴き散って行く新米兵士が余りにも多すぎる為、気が付けば基本的に単独行動の特機乗りの自分にすら、指揮官役が回って来ていた。

「…指揮官だなんて…責任…重いぜ…」

思っていた言葉が、ぽつりと口から滑る。既に今日だけで、スクランブルは4回。
内、迎撃に向かえたのは2回。1回は索敵のみで終了し、もう1回はスクランブルが掛かっただけで、彼等は戦場に赴く間もなく、スクランブルを要請して来た哨戒分隊は敵機によって沈黙させられていた。

『……イルム中尉っ! 応答願いますっ!』

ヘッドフォンから、少しばかり焦り気味のタスクの声が飛び込んで来た。
戦場では、一瞬の隙が死を招く事が判っていながら、イルムはほんの僅かな間、己の思考に耽ってしまっていたのに気付く。

『…済まないっ! 何だ?』

『我々は正面からではなくこの宙域に待機するようにとの連絡が入りましたっ!索敵班からの連絡で、我々の出撃に気が付いた敵機が、後続部隊を発進させた模様です。反対に中尉が先行して後続部隊を迎撃する様に…との命令です』

スピーカーから聞こえるタスクの声が、微妙に上擦っているのは気のせいだろうか。
自分達に気が付いて出撃してきた敵機の量は、まだ判明していない。
敵側の広域ジャミングのせいで、レーダーが役に立たないのだ。

『了解。グルンガスト、イルム機、作戦を変更。先行して敵機の増援部隊の殲滅に移行します』

高速移動に向けて、オートモードにしてあったバーニアの姿勢制御の角度を素早く変更する。

『健闘を祈ります』

各機からの通信がイルムのヘッドフォンに入って来た。
ここにいる誰もが皆、無茶な命令なのだと判っていたのだ。

『グルンガスト壱式、イルム行くぜっ!』

だがイルムはそう簡潔に答えるしかなかった。それ以上、答える術がなかったからだ。

「…俺がここで待機した方が…敵殲滅は楽だと思うんだがなあ……」


ポツリとイルムは小さくごちると最大出力でバーニアを噴かし、彼の駆るウイングガストは軌跡を描いて見る間にその宙域から姿を消すのだった。


エースの条件


『味方が全滅とだってのに、ヤツだけまた生き残ったんだとさ』

『流石はエースパイロットは違うよなぁ、おい。部隊全滅しても自分だけは助かるんだからよぉ』

『あいつの父親ってテスラ研の科学者だって言うじゃねえか。どうせお偉いさんと繋がってるんだよ。だからいい気になってんじゃねぇのかぁ?』

『ヤツが配属された部隊は、いつも全滅になっちまうらしいゼ、本当はヤツが味方も一緒に墜としてんじゃねーのかぁ?』

『ああ、あり得るあり得る』



イルムは所属する部隊が全滅し、更には同僚の大半をも失い、それでも何とか敵を撤退させるまで善戦したのだが、この所の度重なる出撃でメンテナンス不良が祟ったのかエンジンは焼き切れ、単独での飛行が不可能となってしまっていた。
そこでイルムは連邦の識別信号とSOSを交互に発信しつつ、不時着した島で青い大空を眺めながらこの海域で一番近くを航行している艦船の救助を待っていた。
そこへやって来たのがこの艦船だったのだが、彼を待ち受けていたのは、明らかに中傷と悪意に満ちた視線だったのだ。
叩き上げの軍人や風評しか知らない者達にとってイルムの存在は、諸手を挙げて喜べるものではない事ぐらいイルム自身、今迄の経験から十二分に判っていた。

何処へ行っても、テスラ・ライヒ研究所の一級科学者の息子と言うレッテルは剥がされる事はない。


『若造のくせに』

『お偉いさんにケツでも振って、捏造でもしたんじゃないのか』



今迄配属された部隊でも何度も聞かされた言葉だったし、それぐらいならまだしも上官と下士官の結託によってシゴキと称した暴行も何度も受けたことがあった。
彼自身の経験から抵抗すれば相手が付け上がる事を、士官学校時代から延々と続くこの腐った状態を身を持って体験をし続けて来たので、無駄な行為は行わないのに徹していた。
そうすれば、相手はじきにに飽きてくるのだ。

「回収、ありがとうございました」

度重なる戦闘での緊張で、疲労はピークに達していたイルムだったが着艦申請を許可し、回収してくれたこの艦の艦長と、その部下達に対しては当然敬意を表さなくてはならない。
幾ら、嘲笑や侮蔑、中傷にまみれた言葉を投げかけてくる相手に対しても、そうひと言付け加え、イルムは一礼をして、格納庫から去ったのだった。

「艦長がお待ちです」

副官であるだろう人物に促されつつ、イルムは重い足取りで彼に着いて行く。
軍と言う完全な縦社会に置いて、上官の命令や発言は絶対なのだ。

「済みませんね、デッキではご気分を害されたでしょう? この艦にいる総てが彼等と同じではないのですがね…」

自分の前を行く副官は薄く笑みを浮かべつつ、イルムにそう言った。

“…徹底的にキラワレちゃってる訳ね、俺は”

その副官の科白で、イルムは確信が持てたのだ。
この海域を巡洋艦たった一隻で航行している事自体可笑しいのだ。
多分、自分は招かれざる客だったのだろう。

「いえ、こちらの方こそ感謝しております…」

心の中で抱いた思いをおくびにも出さず、イルムはにっこりと笑みを返す。
その笑みが嫌味に思えたのだろう。副官の表情は、先程とは打って変わって渋い顔になり、

「こちらが艦長室です」

と、自分は一歩下がり、彼を艦長室の前へと進めたのだった。



「君の噂は、常々耳に入ってくるよ。流石はエースパイロットの勇名は伊達ではないようだね」

そう言って、イルムを椅子に座るように手で勧める艦長の視線は、まるで品定めをしているようなものだった。

「…ありがとうございます」

そう言って、イルムは勧められるまま椅子に座った。ここで遠慮をしても自分の為にはならないと判断したからだ。だが本来なら幾ら勧められたからとはいえ、座るべきではないのだが敢えてイルムは座る。
それは、相手が自分をどのような目で見ているかどうかで判断していたのだ。
今、目の前にいる艦長も、不信感が宿る視線で自分を眺めている。
そんな視線にはもう慣れきっていた。
だからこそ、こうして一見軽そうな風体を武器に、強かな態度で行動してきたのだ。
当然だろう。叙勲を受けた時に、自分の姿を見ているのは軍上層部の僅かな人間達だけだ。
それも戦時下であるが故、その式典の中継は少将クラスの叙勲のみを放送し、士官以下は名前が読み上げられただけなのだ。
その中でもイルムは、まだ年若いというのにも関わらず、初出撃で一気に5機を墜とすと言う偉業を成し遂げた為に叙勲は大仰なものとなり、少将クラスと同じ扱いを受けたのだ。

そして、出撃するたびに次々と功績を挙げて行きその勢いは留まる事を知らず、今に至っており。


「君の所属する基地には連絡をいれて置いた。直ぐに迎えを寄越してくれるそうだ。そのランデヴーポイントまでの僅かな時間、私は君と少し話がしたいのだか、いいかね」

艦長は目を細めつつ、顎髭を撫でながら正面に座るイルムへと問い掛けた。
自分の上官ではないが、そう切り出されてしまえばイルムに拒否権は出来ない。

「…はい。私とで宜しければ」

「ああ、良かった。いやだと言われたらどうしようかと思ったんだかね」

そう言った艦長の口元には、何を考えているのか判らない様な笑みが浮かんでいた。

“…嘘をつけ…こっちにそんな権限なんかない事ぐらい承知の上で言ってやがるくせに…”

心の中で悪態を吐きながら、イルムはその笑みを見なかった様な態度でにっこりと微笑みを返す。
だが、相手にその彼の考えなど判るはずもない。

「…では、これは私やこの艦のクルーだけでなく、軍の殆どの人間が疑問に思っている事なのだが、君は何故、自分の愛機に撃墜マークのペイントを施していないのかね? パイロットなら誰しも憧れる“星”は、エースパイロットの証明でもある。…君ほどの戦歴の持ち主なら、撃墜王として“星”はもう二桁は描かれていてもおかしくはないだろうに」

艦長がそう切り出した言葉は、イルムが思っても見なかった言葉だった。
そしてその艦長の科白で、イルムは軍内での自分の微妙な位置がはっきりと判った。
歴戦の勇者として、どうやら軍は自分を広告塔に仕立て上げたいのだろう。
エースパイロットとしてのイルムガルト・カザハラが軍には必要であるのだと。

「…撃墜マークをペイントすると言うことは、それだけ人殺しを沢山して来たと言うことでしょう? 勿論、兵隊に思想や意志は必要ないのだと思いますが……ですが…私は…それを自慢出来るほど強くはありませんので…」

そうイルムは艦長に向かって、軽く笑みを浮かべて言うのだった。
けれどその笑みは、酷く疲れた様な自嘲気味なもので。
それが、例え軍紀違反に属する様な物言いだったとしても、そう答えるしかイルムには方法がなかった。
勿論、美辞麗句なら幾らでも並べ立てられる。だがイルムには、それが出来なかった。

「…そうか」

艦長は、そうひと言呟くと椅子の背もたれに背を預け、溜息をひとつ吐く。

「済まなかったな、試す様な物言いをして。私も…多少なりとも、君の思いが判らんでもないが…まずはその考え、私に預けては置かないか。その考えは…後々…君を追い詰めかねんのでな…」

瞬間イルムは腰を上げ、目の前の艦長に向かって何かを言いたくて口を開いたが言葉が出て来ず、小さく口唇が震えただけだった。

「近頃の若い者は、己の力量も判らず、功績だけを求めて焦っては散っていく。そんな中、君だけは違っていたようだったのでな、気になっていたのだ。エースパイロットと言う肩書きは、決して軽いものではない。それを知っているからこそ、撃墜マークがペイント出来なかったのだな…」

「…あ…」

浮いた腰を再び元へ戻し、イルムは項垂れ小さく嗚咽を漏らす。

「だが…その優しさは戦場には不必要なものだ。非情になれ。でなければ、次は君が敵機の“星”になるぞ…。軍は君を広告塔にして新兵を集める気でいる。また、未来のある若者達が戦場で散って行くのだ。その片棒を担がされるのだと認識して、甘い考えは捨てた方がいい…それがエースパイロットの隠れたもう一つの役割だと、認識しなさい」

項垂れたイルムを見詰め、艦長の口調は先ほどとは打って変わって、諭すようなものになっていた。

「…あ…ありがとう…ございます」

「時代にはヒーローが必要なのだよ。それが運悪く…と言うか運良く、君にお鉢が廻って来てしまっただけなのだ。これからもっと大変な役回りになるやもしれんが…我慢して道化師になって貰えないか…私は、決して君の事は嫌いではない…反対に好感すら持てる。だからこそ…」

艦長が言葉を続けようとした時、通信が入り、イルムの所属している基地からの輸送機とのランデヴー海域に達した事を告げられた。

「済まないね、私ばかりが話していたようだ。今度会うときは、君からちゃんと話が聞きたいな」

そう言った艦長は立ち上がり、イルムの肩を軽く叩き、

「さあ、お迎えが来た。自分の居場所に戻りなさい。私たちは君を帰した後、任務があるので早々にこの海域から立ち去らなくてはならないのでね。…あ、そうそう。近日中に君が所属している基地へ特命を受けた者が行くかもしれん。その時は…」

と、言いながら壁に掲げ挙げられた連連邦軍旗を横目でちらりと見る。
その意味は判らなかったが、多分、この艦長も再三辛苦を飲んできていたのかもしれない。


「ご鞭撻、ありがとうございました…」

イルムは立ち上がり、艦長に向かって敬礼をする。

「では、達者でな」

「艦長こそ、どうかご無事で」

そう言ってイルムはその艦から去った。



そして数日後。

イルムの所属する基地へその時の艦長が言うように、特命を受けた軍人が訪れ、イルムは同期のリン・マオとともにPTXと言う特殊任務チームへの配属が決定し、戦闘機乗りからPT乗りへと変更したのだった。

戦士の休息(イルム)

血が。
昏い色をした血が、両手に着いている。
誰が流した血なのか。
それすらも判らないほどの大量な血が、自分の両手を塗らしている。
グルンガストを駆って、撃墜した敵の数だけ血が流れているのだから。
生と死の狭間。
今、自分が立っている場所は、そんな所だ。
撃たなければ、撃たれる。
判っていた。
判っていたはずなのに。

「……ああ」

自分の口から、吐息とも溜息とも取れるものが吐き出される。
ゆるゆると、視線を泳がした先に見えるは、皓々と煌めく闘いの灯り。
消えては現れ、現れては消える。
星の瞬きにも見えるそれは、人の死の瞬間。
美しいまでに輝くそれは、魂が一瞬にして燃え尽きる時。

「なんてキレイなんだ…」

漂う視線は、その星の瞬きにも似た輝きを眺めながら、刻一刻と迫り来る瞬間を待っていた。





「グルンガスト、収容しましたっ!」
至る所から火花や煙を吹き出しているグルンガストは、転がり込む様にしてデッキに帰投する。
「消火班っ! 急げっ!」
3次防御ネットで漸く動きが止り、ロブによって促された整備スタッフは誘爆と引火をこれ以上引き起こさないようにグルンガストへ消火剤を大量に吹き付ける。
被弾箇所は少なかったが、場所が悪い…。
ロブがぽつりと漏らした呟きが、総てを物語っていた。
消火が終了すると、居ても経ってもいられなかったのか、ロブは制止するスタッフを余所に、自らの手でグルンガストのコクピットハッチへとメンテナンスバーを寄せ、非常用レバーを引く。
幾ら消火が終わっており、耐熱スーツを着用しているとは言え、高熱を発しているボディに触れるのは自殺行為にも等しかったが、ロブはそんな事など構ってはいられなかった。
「イルムっ! おいっイルムっ!! 大丈夫だよなっ!」
手順を踏んで開けて行かなくてはならないハッチが、今のロブにはもどかしかった。
空気が抜ける音がして、ハッチが開かれる。
と、同時にロブはある意味、嗅ぎ慣れた臭いが自分の鼻の奥に飛び込んで来た事に対し、眉間に皺を寄せる。
それは、慣れたくもないし、慣れるはずもない臭い。
血臭だった。
右大腿部に突き刺さるように、剔るように喰い込んだ、折れたコンソールパネル。
とっさに行ったであろう応急処置をしたお陰で、パイロットスーツ内に血が溢れ窒息死は免れては居たが、余りにも出血量が多すぎる。
だがイルムは、そんな状態であるのにも関わらず、
「…よぅ。ロブ…リュウセイ達にゃ…言うなよ…」
ロブの存在に気が付いたのか、虚ろな瞳のままそう言って軽く手を挙げ、そしてそのまま意識を手放した。




いつ死んでもおかしくはない場所に自分はいる。
戦場にいる限り、それは等しく手招きしているのだ。
さっきまで笑いあって居た仲間が、5分後には屍となり、冷たく凍える宇宙空間に投げ出される。
それが日常に起きる場所に自分がいるのだと、仲間の死を目の当りにする度に自分に言い聞かせてきたはずなのに。
いざ、直面すると色々考えてしまうものだな…と、朦朧とした意識の下でイルムは思う。
決して、死が恐ろしい訳ではない。
勿論、甘んじて死を享受するつもりも無かったが、それでも軍規によって遺書を書く時点で、それを克服しなくてはならないのだとずっと考えてきた。
だが、子供達の事を考えると。
まだ、死ねない。
まだ、死にたくはない…と思った。




「…多分、もう大丈夫だと思うけど…モルヒネ…足りるかな…」
簡易手術室で、イルムの大腿部に喰い込んでいたコンソールパネルの破片を除去したリョウトは、抗生物質と数点の薬品を点滴として準備しながらリンに漏らす。
この艦には、今、医師が居ない。
その代わり、多少なりとも知識を持ち合わせている者が交代で医療に携わっていたのだが、流石に手術となると誰も代わりになる人間がいなかった。
そこへ、イルムと同じく負傷して医療室にいたリョウトに白羽の矢が立った。
「済まない…この様な事を、本当は君にさせるべき事ではないのだが…」
リンはそう呟くと、リョウトに頭を下げる。
「いいよ、別に。ボクは気にしませんから。こーいう事は出来る人間がやるべきだと思ってるし、それが出来るのがたまたまボクだったってだけですし。」
そう言いつつそのリョウトは、医務室の棚の中をごそごそと探る。
「…それに、ボクも何かしてたいし…」
棚から小さな薬の瓶を見つけ、そのラベルを確認しつつベッドに横たわるイルムの元へと行く。
その後ろ姿を見ていてリンは、溜息をひとつ吐く。
このリョウトも戦争の犠牲者のひとりだ。
戦争さえなければ。
子供達が闘い、苦しまなくてもいいのに。
そして、イルムがこんな目に遭わなかったのに。
「…じゃ、後は…お願いね…」
口にしたい言葉を飲み込み、リンはリョウトにそう言う事しか出来なかった。
「大丈夫。…ボクに任しといて下さい。それに、そう簡単にくたばる様な人じゃないでしょ、このひとは…」
「そうね…ありがとう」
リンはそう言って、後をそのリョウトに任せブリッジへと帰っていった。



「大人って大変だね」
リョウトはベッドサイドにすたすたと移動する。
「…わるかった…ね…」
眠っていると思っていたイルムだったが、リョウトの言葉にゆっくりと瞼を開き、ひび割れた唇から掠れきった声だったが普段と変わらぬ軽口が漏れた。
「ま、当分起きあがれないと思うから… これを機にちょっと休む方がいいと思うよ。中尉。もう…お疲れなんじゃないんですか? ボク達からしたら…結構…年なんだし」
先ほど準備していたモルヒネをイルムへ打つ為に、注射器をパックから取り出しつつリョウトは、にっこりと小憎たらしい笑みを浮かべた。
「…年って…なぁ…。まだ若いつもりだったんだがなぁ…これでも…」
「そーいう事を口にしちゃうってところが、既に年なんですよ」
アンプルの口を折り、その中へ注射器の針を差し込み液体を吸い上げる。
そんな事をイルムは思いつつ、透明な液体が入った注射器が、そっと自分の腕の静脈に挿されるのを見詰めていた。
「…まあねぇ…君たちからすりゃ…ひとまわり以上年齢が違うんだ…もう…年…かもなぁ…」
針が抜かれるのと同時にイルムは天井の方を向き、そう言って溜息を吐く。
「はい。納得出来たらちゃんと寝て下さい。実を言うと、もうそんなに薬ないんで、モルヒネ切れたら痛いの我慢して自力で寝てもらわなきゃならないんですよ」
まるで子供をあやすかの様にリョウトは軽くイルムの肩をほんぽんと叩き、今度は先ほどとは異なる本来の柔らかな優しい笑みでイルムを見詰め、
「…外が気になるかもしれないですけど、無理して死んだらどうしようもないと思いますよ? ホント、休暇でも貰ったと思って、暫く寝ていて下さい。まあ、どのみちそんなに長い間寝ていられる訳でもないでしょうですけど…戦力不足は…これ以上補えませんからね…」
そう言って、イルムに背を向けた。
その背は、己の不甲斐なさを責めている様にしか見えない。
パイロットを引退し、メカニックになっていたとはいえ、それでもパイロット不足を考え出撃したのも束の間、敵戦艦の爆撃に耐えきれず、折角出撃しても直ぐに帰投するはめになってしまった自分の不甲斐なさを攻める気分は、イルムだって判らないではない。
だがイルムは敢えて、掛けるべき言葉を飲み込み、
「ああ。暫く休ませて貰うとするよ…だから君も…気負わず…もう…休んでいいんだからな……」
と、いつもと変わらぬ口調で軽口を言う。
それが今の自分に出来る、精一杯の事なのだとイルムは判っていたからだ。
「…ありがとう…ございます。では、お互い休養を貰ったと思い休みましょう」
そんなイルムの思いにリョウトは背を向けたままだったが、片手を挙げ答えつつ、部屋を後にした。
一方イルムは、そんなリョウトの背を眺めながら、うつらうつらと静かな眠りに入っていったのだった。



静かな、そして僅かな休息だった。

いつかみた夢(イルム)

その部屋は、とても人が住んでいるとは思えない程、生活感が一切なく、そこの住人の性格を考えるととても信じられなかった。その部屋の住人の名前はイルムガルト・カザハラ。普段の彼は、ストライクゾーンが異様に広く女好きで有名な人物だった。
「イルム中尉、お体の具合は大丈夫ですか?」
小さなノック音と共に、耳をそばだてなくては聞こえないぐらい小さな声で、部屋の中にいる住人に向かって声が掛けられる。
「・・・。」
しかし中からは無言のままで、果たして本当にそこの住人が部屋にいるかどうかも判らない状態だった。
「・・・入りますよ。」
声の人物はそう言うと、暗く最低限の灯りしか点っていないイルムの部屋へと入って行く。

もぞり・・・。

声の主に反応してか、さっきまで人の気配すらしなかった筈のベッドの上で何かが動く気配がする。
「・・・ユウ、か?」
もぞりと動いたベッドの上の固まりが、部屋の外の灯りを浴び逆光の状態の人物に向かって問いかける。その声は酷く嗄れており、普段の突き放す様な口調であるのにも関わらず、何故か柔らかな陽射しにも似た暖かな色合いを感じさせる声質からは程遠いものだった。
「・・・まだ、具合悪そうですね。お薬の方足りているんですか?」
ユウと呼ばれた人物が、心配そうにそう言いながらベッド近づいて行った。
「一応足りてはいるんだけどね・・・所詮オリジナルなワケじゃねえだろ? 酷い発作が起きたときに果たして本当にその薬が効くか・・・何て、まだ誰にも判っちゃいない。」
ベッドの上に蹲る様にして起きあがったイルムは、まるで紙の様に蒼白い顔色のまま、ユウに向かって薄く笑みを浮かべる。SRXチームの前身として組まれたPTXチームの中でも独特な戦法を使うエースとしてその名を名だたらせていたイルムガルト中尉ではあったが、その実、自分本来の実力が何処まであったのか、既に本人すら判らなくなっていた。
自分の上官である人物の命令には従わなくてはならないと考えていたあの頃が、今となっては非常に懐かしく感じるイルムであった。
「・・・この戦いが終われば、きっと治療薬も開発されますよ。だから・・・それまで頑張りましょう。頑張って生き抜きましょう。」
ユウは静かに、そして真摯な眼差しでイルムを見詰めながら呟くようにそう言った。
実際の所、ユウは潜在意識を特殊なマシーンによって引き出し、その部分のみを強化する事に成功した強化人間であった。
けれどイルムは違う。
薬物投与によって強制的に脳へ刺激を与えた状態で、脳内に細工を行うといった方法を取った、いわば疑似強化人間だったのだ。
その為か、ユウにはフラッシュバック的な後遺症に悩まされる事は皆無に等しかったのだが、反対にイルムの方は時々起こる酷い頭痛に悩まされていたのだ。
そして、その事実を知る者は僅かしかいない。
イルムにその任務を命令したイングラムと、その計画を実行したコバヤシ博士、そして同じラボで実験素材として扱われた、ユウキ・ジェグナンだった。
「己の・・・実力に見合ってねえものを半ば強引に詰め込みゃ、ズブのド素人でもなけりゃ結果は目に見えてたんだ。勿論、適性検査に合格しなけりゃどうってことはなかったんだがな、運良くって言うか、運悪く俺はそれに引っ掛かっちまった。・・・ま、上層部の命令は絶対だったんでね、軍人やってるからにゃそれなりに覚悟はしてたけど・・・。だがな、あの頭ン中をぐちゃぐちゃと引っかき回される様な感覚の後遺症だけはどうにかして欲しかったな。大抵のことは我慢出来るんだが、こればっかりはどうにも耐えられそうにないんでね・・・。」
イルムは、じっと見詰めて来るユウの視線を受け止めながらそうぽつりと呟いた。
「・・・後悔、してるんですか?」
「・・・していないって言ったら嘘になるが、もう、すんじまった事だ。今更何を言っても遅いよ・・・。」
そう言葉にしてはみたものの、頭の中では全く違う事を考えていた。それは、こうなる事を多分予期していながらも、命令を冷徹に下したあの男の事だった。
あの男は多分どんな事があっても、人が何を考えているかなど考慮に入れ様とは考えもしないだろう。どの様にすれば今の任務にとって一番効率が良いか、そして必要最低限の選択しか考えた事が無いだろう。
その結果、人がどれだけ疵付こうが知った事ではないのだ。
「・・・なあ、ユウ。リンには絶対にこの事は話すんじゃねーぞ。只でさえ今回の事でリンには心配掛けちまってたんだ。これ以上の心配は掛けたくないからな。」
今回自分が起こした出来事ですら、マオ・インダストリーの社長として働くリンには酷く迷惑を掛けてしまったのだ。これ以上の心配事を増やしたくはない・・・イルムはただ単純にそう思っただけなのだが、そんな彼の思いとは裏腹にユウは思いも掛けない言葉をイルムに向かって投げかけたのだ。
「・・・リンさんに対してだけ口止めをするんですか? 本当は他のひと・・・そう。ライディース中尉にも話して欲しくないんでしょう?」
そう言ったユウの瞳には総てを見透かした様な、それでいて優しく柔らかな色合いを漂わせた光りがあった。
「ふ。・・・おまえさんにゃ、やっぱ隠し事は出来ないらしいや。その通りだ。まあどっちみち、ユウが俺の話を吹聴する様な人間じゃ無い事ぐらい判ってはいるがね、念のためって事で。ただな、ライは俺と同じ位辛い目に遭ってんだ。いや、俺以上かもしれん。それを考えると、例の事件絡みの事は出来るだけ忘れちまった方がいいんじゃねえかって・・・考えてる訳だ。」
頭痛の為か時々眉根を顰め、顔を歪ませながらイルムは呟く様に言葉を紡ぐ。
薬を飲んでしまえば痛みは去るだろう。しかしこの耐えられない程の苦しみを伴う痛みを実感出来ている間は、まだ大丈夫なのだとも思っていた。
痛みすら感じなくなった時、それがひととして最期の時を迎える瞬間なのだと。
「・・・。判りました。このことは自分が死ぬ時まで、胸の内に秘めておきましょう。それがイルム中尉の願いならおれは決してひとに話したりはしません。」
「すまんな、ユウ。俺はおまえに無理ばかりさせちまう。」
ベッドサイドに置かれたテーブルの上にある小さな小瓶を手に取り、イルムはその瓶の蓋を開け、中から数錠の錠剤を掌に乗せると、少々乱暴に口内へと放り込み噛み砕きながら、ユウの優しさに甘受する事を伝える。
今現在、本当の意味でイルムが甘えられるのは、互いのデータを知り尽くしているユウだけだ。こんな事になる前までは、あの男だったのに。
暗く凍える湖にも似た、冷めた蒼の長い髪と氷の瞳を持つアイス・ビューティ。 
そのルックスに見合うだけの魂を持っていたあの男は、ここにはいない。
そしてその男の掌で踊らされた男は、ここで惨めな姿で他人に気遣われながら生きている。それは多分一生・・・。
「・・・いいえ、おれの方こそ。あの時イルム中尉に助けて貰わなければ、あのまま気が狂って廃人になっていたかもしれません。それを考えれば、感謝しても感謝し切れません。」
と、ユウがそう言った所で、思わずイルムはぷっ・・・と小さく笑いを漏らした。
「・・・? どうしました? 何かおれ、変な事言いました?」
変な事を言った覚えはなかったが、もしかしたら何か言い回しが可笑しかったのかもしれないと、ユウは少し首を傾げながらイルムに問い掛ける。
「・・・いや、何ね、男二人で遠慮し合いながら庇い合う姿ってのは、端から見たら結構みっともないんじゃねえかなって思ってた訳。」
ふう・・・っと小さく溜息を吐き、眉間に寄せられた皺を伸ばすかの様にこめかみをマッサージしつつ、ユウに向かって口元だけでニヤリと笑みを浮かべる。
「・・・まぁた不健全な事を考えてるんですか? じゃあおれからも言わせて戴きますけどね、中尉にとってライディース中尉はどんな存在なんですか? 普段の中尉から想像するとライディース中尉と一緒にいる時はてんで格好悪いですよ。リンさんの前にいる時と同じくらいにね。」
そう言いながら両腕を腰に添え、少しばかり目を細めてユウはイルムを覗き込む。少々、嫌みが込められている様だ。
「うわあ・・・怖い、怖い。ユウにゃ隠し事は出来ないね。・・・って事で、ぶっちゃけた話なんだけどさ、俺に取ってライは触れちゃならねー領域なんだよ。勝手な思いこみ。独りよがり。ま、片想いって言うか片恋いか・・・な? あの男に対する想いとは全くと言って良いほど異なる想いだろーな。」
戯けた様子で語るイルムの顔に翳りが宿る。多分、彼の言葉は本当だろう。
イルムにとってライは在る意味、自分がひとである為の心の拠り所なのだろう。
だがもうひとりの男は違う。「愛」とか「恋」などと言う感情以上のものでイルムを雁字搦めにした癖に、彼には何一つ与えようとはせず、ただ奪うだけ奪っていったのだ。憎しみが生まれる程に。
「・・・判りました。じゃあそれも聞かなかった事にしましょう。さて・・・と、そろそろ薬も効いてきたみたいですね。・・・いつもより量が多めだったのが気になりますけど、まずは差し迫っているものから片付けていかないといけませんからね、中尉には無理を強いてしまう事になりますが、ミーティングの時間なのでブリーフィングルームに行きましょう。」
チラリと腕時計が指し示している時間の確認をすると、ユウは申し訳なさそうな表情でそう告げる。まだイルムの顔色は悪く、紙の様に白い。このままブリーフィングルームに行けば勘の良いひとなら、イルムの体調の悪さが判ってしまうだろう。
だが行かねばならない。それが彼等に架せられた使命なのだから。
「・・・この薬も、飲んで於いて下さい。多少の顔色の悪さを誤魔化してくれるはずです。」
ユウはそう言って、ポケットの中から小さなカプセルを取り出しイルムに渡す。
以前、ユウがラボで実験を受けていた時に担当医から渡された薬のひとつだ。
そんなものを飲まなければ耐えられない程の過酷な実験をさせられていた・・・のだが、今となってはもう、どうでもいい事だった。
その時発現した力があるからこそ、今ここにこうしていられるのだから。
「・・・サンキュ。じゃ、行こうかね。遅刻するとブライト艦長に叱られるからさ。」「はいっ!」
ユウは全開の笑顔で応えると、直ぐにイルムが出られる様に支度を整え出す。



ふと、イルムは部屋を出る瞬間、自分に割り振られた部屋を振り返ってみた。
色気も何もない、殺風景な冷たい部屋。今日も生きて再びこの部屋へ帰って来られる保証などない刹那な生き方。
夢など見ない、いや見る事の出来ない生活。
そして、果たして自分はここに居て良いのかと、自問自答し存在意義について考えてしまう瞬間。
「・・・ゆめを見たのは、もういつ頃だったか、忘れちまった・・・な。」
吐息にも似た言葉は、傍らにいる少年に聞こえる事はなかった。

LUNA ROSSA(イングラム×イルム)

あまりみない彩色を放つ赤い瞳は優しく、人当たりの良さ気なムードもあって、周囲からは明るく陽気な人間に見られていた。

だが、本当は知らない。

その赤い瞳が時々見せる、まさに血も凍りそうなほど冷え切った視線でものを見ている事に。
そして、それを知っているのは私だけだと。


コンコン…

イングラムは、何処を見るでもなく蹲る様にベッドに座っているイルムに気付き、部屋の入口の壁を軽くノックした。
「…あっ…何?」
軽く叩いただけなのに、その音に気付くのは、すでに身に付いた性からかもしれない。
「入って、いいか?」
入口の壁にもたれ掛かり、イングラムは薄く笑みを浮かべイルムに問い掛ける。
「…断る必要はないだろう。上官のあんたへ拒否するわきゃないっての…、」
そういったイルムの口調は、何処か冷めたものだった。
「ああ。だが…今の貴様は、絶対的に世界を拒絶しているオーラを出していたからな。そんな時に近づいてみろ、枕の下に隠してある貴様の獲物で速攻で殺られるのがオチだ」
肩を軽く竦め、イングラムはそういって部屋の中へゆっくりと入ってゆく。
「そういうあんだだって、そう簡単には殺られるつもりなんて毛頭ないだろうに…」
漸く肩の力を抜いたのか、イルムは顔を上げイングラムの方を向いて口元に薄い笑みを浮かべた。
「ま、生身での闘いだと俺の方が実力あるだろうしな。そう簡単には殺られないさ」
「…言っておれ。普段から最前線に投入されている貴様なのだ、一戦を退きデスクワーク中心になってしまった私とは、比べものにはならんだろう…」
そんな自信に満ちたイングラムの物言いに、イルムはそう言ってぷいっとそっぽを向く。
「…で、何かあった? ……イルム」
「……さっき、ラウンジでミスッた。気が緩んでたのかもしれない。背後に立ったリュウセイに…殺気を向けてしまってな……もしかしたら怯えさせてしまったかもしれない…」
ぽつりとそう言ったイルムは、再び俯く。

“ハガネのクルーであるイルム”としてはとんでもない失態をしでかしてしまったのかもしれない。

そう思ったからなのだろう。
イングラムは小さく溜息を吐くと、イルムの隣に腰を下ろす。

「…こっち向け、イルム」
普段は明るい笑顔で、面倒見がいいと言う仮面を付けているイルムのもうひとつの一面。
そしてイングラム自身も、イルムと同じく此処ハガネでは本来の自分の姿を偽って生活している。
それは、自分に架せられた任務なのだから、割り切って全うしなければならないのだか。

あの子供達の姿を見ていると時々、本来の自分を忘れそうになる事もあった。
だが、此処にいる自分は、本当の自分ではない。
所詮は借り物の、偽りの姿なのだ。

「…気が立っていたとでも、言い訳しとけばいい。普段から完璧な優しい先輩を演じているイルムなら、その言い訳でも通じると思うが」
揺らめく赤い瞳が、イングラムを見詰める。
「あんたの言葉で癒やされるなんてな…癪に障るが…」
イングラムの言葉に苦笑しながら、イルムはそう言って眼を細める。

「まあ…そういう日もあっていいのではないのか? 偶には私だって、貴様に優しい言葉のひとつぐらい掛けよう」
酷い言われようだが、そんな言葉に動じもせずイングラムはイルムの長い髪の一房にそっと触れ、口接ける。
「…ん」

揺れるイルムの赤い瞳の色が、イングラムの前だけで不安げな色彩を放つ。
それは、普段ならあり得ない事だった。
「…だが、もしもそれでも詮索してくる様なら…ちょっとばかり脅せばいい…それでも駄目なら……」
そう言ったイングラムの眼に獰猛な色彩が宿り、口元は何処か歪にゆがんだ笑みが浮かんでいた。
「…物騒だな、イングラム。まあ…そこがあんたのあんたたる由縁なんだけどな……」
イルムはイングラムのその言葉に、喉の奥の方で『ククク…』と笑みを零し、赤い色の狂った月の様な瞳をうっすらと歪ませながら、両腕をイングラムの肩に絡ませる。
「俺は、あんたが何を考えて此処にいつづけるか判らねえ。そして、何をしようとしてるのかもな。俺の生死すら利用しようとしてるの位はお見通しだ。だが…そう簡単には……」
そしてイングラムの手が、そのイルムの言葉話聞きつつ昏い笑みを浮かべながら背に廻される。




優しくて不器用なこの男は、自分の本質に気付いてない。

悟りきった僧の様な面立ちを持っているのにも関わらず、その仮面の下には血に飢えた獣の魂を持っている反面、純粋で汚れのない魂も持ち合わせている。

だから私は惹かれるのかもしれない。

自分とは異なる存在に、相反する存在に惹かれる様に、私たちは……。




ふたつだった影がひとつになり、その影はゆっくりとベッドに倒れ込んだ。

そして………。

ゆきて かえらぬ こどくの みちへ(イルム×イングラム)

鏡の前で、黒く染められた髪を後ろで編んで束ね、カラーコンタクトを入れてから念を押すように黒いサングラスを掛ける。
「じゃ、行ってくるから。旺角電脳中心(ウォンコディンノウジョンサム/ウォンココンピュータセンター)にある、ジャンクパーツ屋を一通り見てくればいいんだな?」
台所と洗面、更にはシャワールームとトイレが一緒くたになった小さな部屋から、大声で隣の部屋にいる同居人に対してそう話し掛けた。
「…五月蠅い。そんな大声を出さなくても聞こえている。」
もぞり・・・と、狭い部屋に置かれた小さなベッドの上で、窓から入ってくる朝日を避けるようにしてシーツを被り、丸々38時間振りに取れる睡眠を妨害して来る傍若無人な相手に向かって抗議の声を上げる。
「だって、寝てるみたいだったから大声で言ってやったんだぜ、目が覚めただろ?イングラム。」
サングラスを少しだけ下げ、ひょいと隣の部屋を覗き抗議をして来る相手に向かい、そう言いながらペロッと舌を出す。
するとベッドの上でシーツを被っていた、イングラムと呼ばれた男は、
「馬鹿が。いつになれば覚えるのだ。此処での私の名前はイングラムではなく、葉飛星(イップ・フェイ・シン)だと言っただろう。いい加減覚えろ。」
と、眉間に皺を寄せ、只でさえ一昨日からの睡眠不足でくたくたになっているのにも関わらず、帰宅早々ベッドの上で一汗流させられたのだ。機嫌も悪くなるだろう。
「えー?いいじゃん。この部屋にいる時だけはプライベートなんだぜ。監視されず、自分達の時間を確保したかったから、こんな下町の2Kのちっせぇ部屋を借りたんだんだから、部屋にいる時くらいちゃんとお互い本当の名前で呼んだっていいだろー?」
壁に背を凭れ掛けさせ、葉・・・イングラムに向かって反対に抗議を仕返したのだ。
「…イルム…貴様は、この1ヶ月の間、何をして来たのだ?まだ暫くは此処に居なければならないと言うのにも関わらず、のほほんと…。」
イングラムは思わず頭痛がする・・・といった風に、人差し指でそっとこめかみを押さえる。軍人として、部下としては非常に優秀なイルムガルトではあったが、どうも人格と言うか感情の一部分が欠落した部分がある様だった。
何処が、と問われると少々回答に窮してしまう。
だが、彼の生い立ちの事を考えれば、否めなくもない。
それに、自分だって人として欠落している感情がある事は判っているので、今更指摘する様な事でもないと、も思っていた。
「あんただって、俺の事イルムって言ってるじゃん。俺の名前は、郭耀黎(クォック・イウ・ライ)だぜー。」
イルムは、イングラムが何を考え、何を感じているかなど何処吹く風、といった風にそう言ってケタケタと笑う。矢張り、精神のバランスが崩れて来ている様だった。

実際あの事故以来、イルムの精神は短期間で躁と鬱を繰り返していた。

勿論、その原因の一端は、コピーの肉体にオリジナルの頭脳と、生体コンピュータの移植なのだろう。その、生命体として不自然な状態に置かれているイルムの、心と身体に掛かる負担は計り知れない。
更には、その不自然な存在を維持する為に、免疫抑制剤や調整剤等の薬品を過剰に投与、摂取し続けなくては、生きては行けない身体になってしまったと言う事実。
それら総てが、イルムの精神を肉体をじわじわと追い詰めてゆく原因だった。
不自然な状態の肉体を、薬物摂取と言うかたちでねじ伏せ維持させている間はいい。
だが、もしそれすらも不可能になったとしたら?
いや。だからと言って、イングラムに何が出来るのだろう。
所詮、イルムは自分の手駒のひとつであり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

壊れてしまえば、廃棄してしまえばいい。
その条件を納得して、イルムは自分の手を取ったのだ。
ふたりの関係は、その程度のものであったはず。

イングラムは、台所の壁に背を凭れ掛けさせているイルムを眺めつつ、そんな思考に入り込んでいた。その姿は端から見れば酷く気怠げで、ベッドに寝転がり軽くシーツを羽織ったまま、頬杖を突いていたのだ。
緩やかなウェイヴの長い藍色の髪が、男性にしては似つかわしくないほどの白い肩に掛かり、それが皺だらけのシーツへと流れている。
「何見てんだよ。…そんなに俺はイイ男かぁ?」
ほんの数時間前まで行っていた情事の事など忘れてしまっているかの様で、イルムは軽く躁の状態に入っている事が見て取れた。いつもそうだ。
仕事を始める前、イルムはいつも躁状態になる。
「何、寝ぼけた事を言っている。いいか、ジャンクパーツ屋だが、旺角電脳中心の地階にある、阿哥張電脳醫院(チャン兄貴のコンピュータ病院)へ行くんだ。そして私の名前を出せば、DCからの流出品であるニューロチップが手に入る。」
勿論、躁状態だろうと鬱状態だろうと、仕事に支障さえ来さなければ、イングラム的にはどの様な状態だろうと気にはしなかった。
「へいへい、判りやした。んで、当然キャッシュなんだろ?…んー、金下ろしてかないとねーな…。」 
イングラムの言葉に、イルムはジーンズのポケットから財布を取り出し、現在の手持ち金を調べる。100香港$が4枚、200香港$が1枚、500香港$が1枚と多少の小銭があるだけだ。これではとても、闇ルートで流れるコンピュータの部品など買えない。
「近くに…恒生銀行が…あるだろうが?そこで…下ろしてゆけばいい。」
流石にイングラムも、睡魔と疲労には勝てなかったのか、次第に声のトーンが落ちだし、頬杖を突いてイルムを眺めたまま、とろとろと眠りに入りだしていた。
「あ、そうそう。冷蔵庫壊れたから、今日の食事は近所の餐廳(チャンティン/食堂)になるけど、いい?」
と、突然イルムは思い出したかの様に、そんな事を言いだした。
「…?」
半分眠っている頭でイングラムはイルムの言葉を聞いていたが、暫くして、
「どういう事だ?何故、冷蔵庫が壊れる?」
そう言って飛び起きた。
それもその筈。冷蔵庫やその他の電化製品は総て、此処に来てから買った物だったからだ。
まだ、1ヶ月しか経っていないのに、そうも簡単に電化製品が壊れるとは思ってもみなかった。
「…えーと、ほら、コンピュータ買うのにお金掛けて、その他の電化製品は中古を買ったからさ…そのせいじゃないかなーって…。」
そんなイルムの科白に、イングラムは思わず頭を抱える。
別に中古の電化製品を買った事に対しては何とも思わない。
一時的に必要なだけであって、いつまでも此処で生活する訳ではないからだ。
だが、イルムに生活必需品を買い揃えさせる事が間違っていたのか・・・。
尽く問題を生むイルムに対し、頭が痛くなったイングラムは、ふと、自分が冷凍庫の中に買い置きしていたものを思い出す。
「…ちょっとまて。冷蔵庫が壊れたのは何時頃だ?」
普段は沈着冷静なイングラムが、珍しく慌てた様に立ち上がるとハンガーに掛けてあったシャツを取り羽織る。
「んーー、あんたが帰ってきた時には既に壊れてたからなー。」
のほほんとした口調の、イルムのその物言いに
「き…貴様と言う奴は…本当に…っ!」
イングラムは思わず拳を振り上げそうになってしまった。
「なっ…なんで、たかがそんなことで怒るんだよっ!らしくねーぞっ!」
反対にイルムの方はと言うと、そんなイングラムの仕草に機敏(?)に反応し、思わず両手で頭を抱え、身体を縮こめて抗議するのだった。
「…冷凍庫に…ハーゲンダッツのチョコミントが入っていたんだ。尖沙咀(チムサツョイ)にまで買いに行ったのだぞ。」
生活必需品から嗜好品まで、軍の宿舎で生活している時は大体の物が破格の値段でPXで揃う為に、さほど考えた事などなかったのだが、こうして外で生活してみると、嗜好品一つ購入するだけでも手間もお金も掛かる。
「あー?なに贅沢してんだよ、近所のコンビニで買えよ、アイスくらい。」
コンビニで買えばアイスなどコイン一つで事足りるのだが、ハーゲンダッツとなると、そうは行かない。
ケタが変わるのだ。そんな高いものを、更にわざわざ尖沙咀にまで買いに行くとは。
イルムは思わずムッとしてしまった。
「それに、どうせイングラムの事だ。地下鉄に乗って行ったんだろ。幾ら研究所から支給されてるカード使って地下鉄に乗ってもな、使った分は申告しなくちゃならねーんだ。それを判ってんのかなあ?もう。」
サングラスを少しだけづらし、じいっとイングラムを睨み付ける。
これでは、いったいどちらが上官なのか判らない。
自分達は今、如何にも指令を受けて行動しているかの様に一時的に軍から離脱しているのだが、それは飽くまでも軍のデータを改竄して行っている事で、実際はそんな指令は受けてはいない。
更には、自分達が動くための資金だってそうだ。
ナイメーヘン時代に培った交友関係を利用し、軍で動かせる資金の一部のデータを足跡が残らない様に操作し、それを地下銀行に移動させる。そんな手間の掛かる手順を踏んで入手した資金だって、無限にある訳ではないのだ。
「…たかがアイスではないか、そんなに目くじらを立てなくてもいいと思うのだがな。それに地下鉄だってほんの5区間。それよりも、値切って購入した中古冷蔵庫の故障の方が問題だとは思わないのか。」
寝乱れた緩やかな巻き毛を手櫛で整えつつ、ムッとした表情でイルムを見つめる。
はっきり言って、イルムの方もイングラムがこんな人間だったとは、こうして一緒に生活をするまで知らなかった。
いつも高みから見下し、冷徹な判断と的確な行動力で、自分達に指令を下している人物が、実は非常に甘い物を好み、自分の眼鏡に適った菓子があれば、其れこそ手段の為なら目的すら辞さない程だったのだ。
「ンな事言ったってよ…、始めはあんただって賛成してくれただろ?余分な処で金は使えないって。だから…っ!」
そんなイングラムの物言いに、思わずイルムは声を荒らげてしまう。
どうも此処、香港に来てからというもの、どうも主導権をイングラムに取られがちだったイルムとしては少々面白くなかった。 
勿論、元々イングラムの部下なのだから当然と言えば当然なのだが、始めは一般的な生活能力が全くと言っていいほど無かったイングラムを、此処まで更正(と言うのだろうか)させたのはイルムの努力の賜物だった。それがどうだ。
自分がイングラムを振り回していたはずが、今では反対に振り回されている。
「…言ったには言ったがな、粗悪な中古品を買えとは言ってはいなかったはずなのだが。」
冷蔵庫としての役割を果たさなくなってしまった物体の前まで来て、イングラムは大きく溜息を吐きながらそのドアを開ける。
季節が季節なだけに、冷蔵庫の中身は無事だったが、冷凍庫に仕舞ってあった物は全滅を免れないだろう。
「もういい。貴様に任せた事が間違いの元だった。優秀な遺伝子を組み込んで造られたワリには、どうやらそれが普段の生活に生かされていないみたいだからな。」
冷蔵庫の背面に廻り、イングラムはコンセントを抜きながらイルムに対して嫌味の一つでも言わずにはいられなかった。疲れて帰って来たというのに、ベッドの上で一運動させられ、昼過ぎになって漸く眠れると思った矢先にこれだ。
イングラムの態度は当然だった。
「差別すんなよ。こんな俺でも、傷付きやすいんだぜ。」
そう言いながらイルムは大仰な仕草で訴えるが、イングラムはその訴えを軽くあしらうかの様な態度を見せる。
それは、まるで犬でも追い払う様な仕草だった。
「そんな処でいつまでもウダウダしているな。とっとと、自分に与えられた仕事をして来い。たかが“お遣い”なのだ。それくらいは出来るだろう?」
そんなイングラムの物言いに、イルムはむっとした表情をするが、その言葉に対して反論が出て来なかったのか、
「…行ってくる。」
と一言だけ言うと、部屋から出て行ってしまった。


旧暦から建っているだろう、彼等の住む大厦(マンション)は、地上9階建ての8階に部屋があり、1階から3階までは小さなショップが入っているのだが、それ以上の部屋は半分以上が空き部屋で、更にはエレベータも無いものだった。
旧暦時代に中国へ返還され、一時的に過去と同じ程度にまで栄華を誇る事の出来た香港だったが、新西暦になり、各地で再び戦争や抗争が勃発する様になってからと言うもの、政治的難民の急増で香港はスラム化の一途を辿っていた。
とは言え、地形的にも主要各国の軍事中継港として充分に機能を果たす為に、酷く矛盾を抱えた街でもあったのだ。
「おや、出勤かい? 阿郭(クォック兄さん)」
彼等の住む大厦(マンション)の1階部分は、小太りした気の良さそうな阿婆(お婆さん)が独りで経営している、間口僅か一軒弱の果汁舗(グォッジャップポウ/ジューススタンド)があり、イルムはいつも出勤前にそこでジュースを一杯飲んで行くのを日課としていた。
「ううん、今日はお休みだよ。でもちょっと買い物があってね。あ、竹蔗汁(ヂョッヂェジャップ/砂糖黍ジュース)の細杯(サイブイ/スモール)頂戴。」
と、イルムは傘立ての様な容器に入っている砂糖黍を指差す。
「あいよ。」
そうすると、阿婆はその砂糖黍を一本取り出すと、鋏で適当なサイズに切り、手動の絞り機に詰め込んでハンドルを回す。そして安っぽい紙コップに絞りたての竹蔗汁がなみなみと注がれるのだ。
イルムはこの果汁舗で、色々なジュースにチャレンジしてみたが、この少し埃っぽい臭いのする竹庶汁が一番好きだった。
「多謝(ドーヂェ/ありがとう)。」
にっこり笑って、イルムは小銭を阿婆に渡す。
「そうそう、さっき同屋住(トンオッジュー/同居人)の阿葉(イップ兄さん)が帰ってきたみたいだけど、あんまり顔色良くないねぇ。身体に気を付けるように言っときなよ。あんたと違って凄く真面目そうだからね。」
小銭を受け取りながら、阿婆はそう言って笑う。
「酷ぇなあ、阿婆。俺だって、仕事は真面目にやってるよ。」
「あっははは。仕事だけかい。流石だねえ。」
と、イルムは此処でいつも他愛の無い話をしていた。何故かは知らないが、此処の阿婆は彼等の事を気に掛けてくれているせいかもしれなかった。
「じゃ、俺ひとっ走り行って来るから。また後で。」
飲み終えた紙コップをごみ箱に捨てながら、イルムは阿婆にそう言ってその場を去って行く。急いでいる訳ではないのだが、こんな処で油を売っているとイングラムにまた何を言われるか判らないからだ。


多分、此処香港での生活もそう長くは無いだろう。
必要な情報さえ入手出来れば、此処に長居する理由は無いのだから。
そしてその時、イルムはイングラムと決別する。
イングラムは軍へ戻り、イルムは工作活動に入るからだ。
此処での諜報活動は、その為の下準備でしかない。

自分を生み出した父親や研究所、そして自分が今、所属する軍すらも捨てて、イルムは自分の意志で初めて歩き出したのだ。
自分の為に敷かれたレールから外れて。

だからこそ今、此処で生きている自分を楽しもう。
僅かに残された時間を、有意義に過ごそう。
此処から先は、孤独との戦いになるだろうから。


イルムはそう思っていた。  

黒の智天使 蒼の堕天使 ♯5


ベッドサイドのテーブルに、白や赤のカプセルや錠剤の入った硝子瓶が幾つも置かれている。その上を、伸ばされた色のない手が彷徨う。
「・・・えと、カプセルが筋力増強剤で5錠・・・白くて小さい錠剤が機能障害抑制剤で3錠、こっちのピンクのカプレットが精神安定剤で2錠・・・大きくて白い錠剤が鎮痛鎮静剤で6錠・・・。あ、免疫抑制の点滴の新しいパックを出さなきゃ。」
そう言いながら、イルムは小さく溜息を吐いた。

新しい身体。

モルモットの特権として、オリジナルが使い物にならなくなっても、直ぐに融通が利くようにクローン培養されていた身体。
傷ひとつない、綺麗な身体。
けれどそこにはそれなりの弊害があり、オリジナルから移植した脳を身体の方が異物として拒絶反応を起こさないように、それ相応の薬品を投与し続けなくてはならない。
そして、培養槽から出てきたばかりの身体は筋力が無い為に、当分の間はリハビリに専念しなくてはならないのだ。
それでもイルムは、短期間の間に腕の筋力だけは人並み程度にまでは鍛える事が出来た。 けれど脚の方はどうにも上手く行かなかった。
己の体重をその二本の脚で支えなくてはならないのだから、それは当然の事なのだとイングラムは笑いながら言ったが、イルムとしてはその当然の事が出来ないのが悔しかった。  
元来の、負けず嫌いな所が、そんな気持ちにさせるのだろう。

勿論それだけではない。

早く歩ける様になり、未だ面会謝絶の札が掛けられている左腕を失ってしまい精神に酷い疵を負ってしまった、まだ年若い少尉の元へ見舞いに行きたかったのだ。
車椅子姿の自分を見たら、彼の繊細な心を更に傷付けてしまう。
イルムは、そんな風に考えていた。


ブゥーンと言う小さなモーター音を響かせながら深夜、廊下を電動車椅子で移動をする。
深夜、誰も居なくなったリハビリテーションルームで独り、イルムはなかなか動いてはくれない脚と毎夜戦っていた。
幾ら軍病院内の特別区に居るとは言え、自分の姿は他人に少々違和感を与えてしまう事ぐらいイルムは充分承知していた為だった。
自分を知っている人物達は割合と多い。
それは父親の存在も大きな要因のひとつではあったが、自分がはじき出す結果がいつも周囲の期待以上の成績を修めてしまうのも原因のひとつだった。

その為に、いつもイルムは人からの期待に満ちた視線に晒されていた。
そんな人物が、今回の事故で僅かに生き残った3人の内のひとりなのだ。
それも、一目では何処に怪我を負ったか判らないほどに回復している。

勿論、今のイルムは自らの脚で歩行どころか、ろくに立ち上がる事すらもまともに出来ないのだが、体中至る所に包帯を巻き、器具で固定されていながらも事後処理に逐われているハミル博士と比べれば、無傷に等しいイルムの姿は違和感を覚えずには居られないだろう。
幾らES細胞から四肢がコピー可能になった時代とは言え、人体丸ごとのクローニングはまだ倫理的規制によって建前上禁止されているのだ。

そんな中イルムが平然と姿を現すのは、非常に疑惑を生んでしまうに違いない。

非常に重体の患者として否、ほぼ死体として搬送されて来た筈のイルムガルト・カザハラが、僅か一週間程度で車椅子で自由とまではいかないが、動き回れる程に快復するなど、本来ならば有り得る筈もないからだ。
とは言え、誰も表立ってその疑問をイルムやその周囲の人物に問い質す者はいない。
そして実際の処、己の思惑とは異なり、そう言う地位に属する存在に入っていたのだ。

イルムは。

けれど本人からすれば、それは自らが努力して得た地位ではなく「カザハラ」と言う名前に付随して来たものと言う認識しかなかった。
そんな状態であったからイルムは、自分が思う様に動けない間は白い髪を染められないし、長すぎる髪も切れなかった。

「・・・あれ?リハビリルームに灯りが点いてる。ヘンだな・・・俺以外にこんな時間にリハビリする酔狂なヤツがいるんだ・・・。」
月明かりと僅かな非常灯の灯りだけが光源の、天井まで届く硝子張りの長い廊下を独り、イルムは車椅子で移動しながら、自分の目指す部屋の電気が点いている事の気が付く。

白いリノリウムの廊下は冷たく月明かりを浴び、その光りを反射している。
静かな、夜の明るい闇。
その時間だけが、イルムは自由だった。
昼間の間イルムは、クローニングされた新しい身体の機能のデータ収集の為に拘束されている為に自分の時間が持てない。
ストレッチャーでデータ処理室に運ばれ、訳の判らない装置や機具や奇異な目の医師達に囲まれ、過剰な薬物投与や実験が幾度となく繰り返し行われ、いつか神経が焼き切れてしまうのではないかと、いっその事、気が狂ってしまえたら・・・と思う様な日々を送っていた。

けれど僅かな時間。

静まりかえった夜の間だけは、自分に許された時間だった。
「・・・誰がいるのかな、こんな時間に。」
部屋の前まで行くと、イルムは直ぐにドアを開けて入ろうとはせず、小窓から中をチラリと覗いてみる。あんなに酷い目に遭っても、見栄っ張りな性格は一朝一夕には治る筈もなく、もしも女性が独りでリハビリをしている様なら、今日のリハビリは諦めようと考えたのだ。実際、自分の苦痛に歪んだ顔を他人に・・・と言うか女性に見せる位なら死んだ方がマシとまで考えていた程だ。
自分が考えていた程、脚は思ったように動いてくれない。
みっともなく転び、無様に這い蹲る姿は、自分としては絶対に女性に見せたくはない。 端から見れば非常にハンパなポリシーではあったが、それだけは決して妥協したくない己に架した矜持でもあったのだ。
それは、自分には母親がいないというコンプレックスからだったかもしれない。
「・・・。」
小窓から中を覗き込み、イルムは息を飲む様に絶句した。
確かに、今朝までは面会謝絶で会うことすら出来なかった筈の金髪の少尉・・・。
ライディース・F・ブランシュタイン少尉が、いた。
僅か一週間程前までは確かにあった両腕。
けれど今は、空っぽになった左の袖が力無く揺れている。
その姿は余りに痛々しすぎて・・・イルムは口唇を噛み締めた。
まだ、疵も癒えてはいないだろうに、自分の身体に鞭打つかの如く、少尉は残された右腕でトレーニングをしていたのだ。
その姿はまるで身喰いの獣の様で・・・。
「・・・よ。ブランシュタイン少尉、もう大丈夫なのか?こんな処に来れるってのは。」 
イルムは気を取り直し、胸に抱いた思いを仕舞い込むと、車椅子が邪魔にならない様に器用にドアを開け、リハビリテーションルームへと入って行く。
「・・・っ!」
唐突に声を掛けられ、イルムにブランシュタイン少尉と呼ばれた、まだ年若い少尉はビクリと身を縮め、ゆっくりと振り返る。
その白く麗しい容は見る影もないほど憔悴仕切っており、太陽の輝きにも似た美しく煌めく金色の髪は、表情と同じく色が褪せてしまっていた為に、イルムは不用意に声を掛けたことに少々後悔をしてしまった。
「・・・イルムガルト・・・中尉・・・。」
イルムの声に反応した年若い少尉は、振り返ると同時に見る間に表情が強張り、驚愕に満ちた表情でそこにいるイルムを見つめ立ち尽くしてしまっていた。
「・・・ん?どーした?俺の顔に、何か付いてるか?」
只でさえ憔悴仕切って顔色が悪いのに、そんな強張った顔で自分を見つめてくる少尉に対し、イルムは訝しげな表情で小首を傾げる。
「・・・あ・・・あなたの髪の毛・・・の色・・・真っ白・・・で・・・。」
蒼い、宇宙に輝く綺羅星をそこに集めて填め込んだかの様な瞳が潤み、震える金色の睫毛の狭間から見る間に色を失ってゆく。

悔恨と、恐怖。喪失と、焦燥。

それらの色が綯い交ぜになった瞳が、イルムを射抜く。

「・・・あ、違う違う。今回の件でこんなになった訳じゃないから。元々、俺の髪の毛は白かったんだよ。普段は染めてたって訳。よく考えてもみろよ。あんな色の髪の毛があるわきゃねーだろ?」
一瞬して少尉が胸に抱いた思いを悟ったイルムは、そう軽口を叩く。
事実をほんの少しだけ知らせれば、大概の人は安心する。勿論、それ以上に疑問を抱くだろうが、突き付けた疑問に対しにっこり笑えば、必然的にその疑問にイルムが答える事を拒否しているのだと、悟ってくれる。
角が立たないように、何事もさり気なく。
それが、イルムが覚えた処世術のひとつだった。
「処で、折角一生懸命リハビリしてる最中で悪いんだけどさ、ちょっといいかな。」
イルムはチラリと壁に掛けられた時計を見ると、車椅子の背に取り付けられたフックにぶら下がる点滴パックから落ちる液体の速度を早める。ゾンネは二本あり、片方の針は首筋に、もう片方の針は手の甲に消えていた。
「・・・何で・・・しょう・・・か。」
青冷めた容は、そんなイルムの姿を凝視しており、決して目を反らさない。
自分のしでかした結果の一例が、眼前にいるのだと胸に刻んでいるかの様な表情に、イルムは胸を痛める。そんなに気負わなくてもいいのに・・・と。
自分も傷付いているのに、他人を気遣わなくてもいいのに・・・と。
「そうだな。こんな処じゃナンだから、休憩室に行こう。珈琲ぐらいなら奢ってやれるぜ。」 
イルムはそう言い、少尉に向けて軽くウインクする。
「・・・はあ。」
一方、何を意図して自分を誘って来るのか判らない為、年若い少尉の表情は曇っていながらも釈然としない・・・といったものに変わってゆく。
「よし、じゃ行こうぜ。」
そんな彼の思いを余所に、イルムは少尉の右手を軽くぽんぽんと叩くと此処から移動しようと優しく促した。


休憩室の一角にある、自販機の前。
「悪ィな、こっちから誘っておいて自販機の珈琲で。」
イルムは照れ臭そうな表情で微笑みながら少尉の方を向く。
「で、更に悪いんだけどさ、車椅子の背にあるポケットに財布があるから、その中からカードを出して貰えないかな。」
そう言ったイルムの微笑は、無邪気と言うか、無警戒なもので、構えていた少尉の方が肩透かしを喰らってしまったかの様に思え、小さく溜息を吐いてしまう。
そしてイルムに言われるまま、背後に回りポケットから財布を取り出し、その中に一枚だけ入っていたカードを抜き取った。
「これ、ですね。」
慣れない片手だけで行うその作業は、少尉にとって少々難儀ではあったが、イルムにカードを渡した瞬間、彼が意図した意味を察する事が出来た。

片手でも、行おうと思えば何だって出来る。
イルムの瞳が、そう言っていたのだ。

「済まんな。まだ思うように脚が動いてくれないんでね。その代わりに、此処の自販機で買える飲み物なら何でも買っていいよ。あ、それと俺はいらないからね。」

けれど、そんなイルムに対して少尉は困った顔でカードとイルムを交互に見つめてしまう。財布から出したカードは見たことの無い特殊なもので、一部の士官にしか使用が許されていないらしく、軍のIDと本人の名前、所属などが記されたものだった。
「・・・?あ、大丈夫大丈夫。使えるって。あ、後まだ俺、食事して良いって言う許可が下りてないから、いらないって言っただけだから。」
「・・・なら、余計に私だけ戴くなど・・・。」
飲食の許可が下りていない・・・と、イルムは軽くにこやかに話していたが、それを聞いた少尉は瞬間、顔色が変わる。よくよくみれば、先日人工太陽の下で見たイルムと比べ、総てに於いて醸し出す雰囲気が変わっていたのだ。
それが、どこがこう変わっている・・・とはっきりと断言できる様なものではなかったがのだが。
「気にすんな。それともナンだ?俺からの奢りが気に入らないってか・・・って言っても自販機の珈琲じゃサマになんねーな、ははは。」
まるで少尉の顔色の理由に気が付いたかの様に、イルムはそう言って再び笑みを浮かべる。けれどその笑みは何処か暗く、果たして本当に、今自分の目の前にいる人物は自分の知っているイルムガルト中尉なのだろうか・・・と、疑問符が浮かぶ。
今までは、イルムの中に燻っている情熱を体現したかの様に、赤々と燃え上がる炎色した瞳なのだと少尉は思っていた。だが今こうして改めて見てみると、今まで自分は酷く考え違いをしていたのではないかと、そして考えを改めなくてはならないのではないかと、思い出したのだ。 
それは、イルムの瞳から発せられる輝きが、赤と言うには余りにも昏く、そして酷く沈んだ赫色なのだと言うことに初めて気が付いたからだった。
果たしてこの昏さは、いったい何処から来ているのだろう。
ただ普通に生活しているだけでは、到底生み出される事のないだろう、深く昏い暗黯を孕んだ赫い闇色の瞳。そして、その赫い瞳がすうっと細められ、じっと見つめていた少尉に向かって、
「・・・何も考えなくていい。お前は何も考えなくていいんだ。今は自分の疵を癒す事だけに専念していればいい。」
情の薄そうな口唇を軽く歪め、皮肉めいた笑みを浮かべると、イルムはそう言葉を続ける。彼はいったい、自分に何を言わんとしているのか。
少尉はイルムが発する言葉から、その真意を読みとろうと試みる。
「・・・いいか?お前には今後、やらなくちゃならない大変な仕事が待ってるだろう。だからその為には休息が必要なんだ。俺とこうして遇っている事だって、そこに至る為のステップにすぎないって事を覚えときな・・・。」
こうして偶然出会えた事すら、必然であったのだとイルムは真剣な眼差しで話す。
事実、こうしてふたりがこの軍の病院に入院している事だけでも、軍関係者の中で極秘事項として扱われ、存在自体が秘匿されているのだ。その渦中の人物同士が出会うなど、極めて稀だろう。それ程までに、あの事故に関し軍事体がナーバスになっていた。
「・・・。」
イルムの話がまだ多少なりとも長くなるだろうと感じた少尉は、彼の好意に甘え、自販機に設置されたスリットにカードを差し込み、エスプレッソと書かれたボタンを押す。
カタンっと小さな音がすると、自販機の中のモーターが作動する音が狭い休憩室に響く。
「・・・今から言う話は、聞き流してくれればいい。ただ、心の心の片隅にでもそう言えば俺が何か忠告していたな・・・とだけ留めて於いて貰えれば、お前さんの為にもなる。」
自販機から熱いエスプレッソの入った紙コップを取り出し、借りていたカードを車椅子のポケットに仕舞い込むと、少尉はイルムと向かい合わせになる位置にあるベンチへと腰を下ろす。

「・・・それで私に、何をさせようとしているのです?中尉。勿体ぶらないで話して下さい。」

少尉はそう言いながらも、ここでイルムの話を聞いてしまえば、自分も後戻り出来なくなってしまうのではないかと何となく感じていた。
けれど、まるでイルムのこれから話す言葉を余すところ無く聞くように・・・と、無くなってしまった筈の左腕が警告するように疼いていたのだ。
「・・・。」
少尉はそのチリチリする感覚に、思わず左肩をそっと抱き締める。
一方、イルムの方はと言うと、そんな少尉の仕草をじっと哀しげ気な表情で見詰めていた。
その表情は、まるで自分の罪を断罪しているかのようだった。

何が彼をそこまで追い詰めているのだろう。
何が彼をそこまで苦しめているのだろう。
その疑問は、決して自分に回答を与えてはくれないだろう。
目の前の男は何もかも総て、己の胸の内に秘め、決して表には出さないだろう。
それが喩え、道化師に身を窶したとしても。
笑って答えるだろう。
これが、己が選択した道なのだからと。

「・・・俺は明日、姿を消す。運が良ければ会うこともあるだろうが、ね。理由は色々あるが、それはお前の与り知らない事だから話さない。だが、これだけは忠告しておく。イングラムを・・・イングラム・プリスケン少佐を絶対に信じるな。」
そして唐突に、自分達の上官である人物の名を口にし、その人物を信用するなと言い出したのだ。その表情は、先程とは一転して激しいものへと代わり、昏い色をしていた赫い色の瞳が燃え上がる炎の様な色彩である緋い色へと変化する。
「・・・ど、どういう事です・・・か?」

判らない。目の前の男が何を考えているのか。
何に挑んでいるのか。
そして。

「言葉の通りだ。人身御供は多少必要だが、それはお前じゃない。お前は、お前にとって必要な人間が現れるその時まで、爪と牙を研いでおくといい。そして、その時初めてお前はそいつの為に、生きろ。」

目の前の男は、自分に何をさせようとしているのか。
何を期待しているのか。

「・・・何を言っているのか、私には・・・判りかねますが・・・答えは、その時に、と言うことですか?その時、あなたがいないかもしれないのに。」
判らない事だらけで、少尉はその言葉の意味通り以外の、裏に含まれた意味を察することが出来なかった。その為、そう答えるしか方法はなかったのだ。
「ああ、それでいい。流石・・・と言う処か。」

赫い瞳が、少尉の蒼い瞳を射抜く。
その視線は酷く痛く、哀しかった。


そして翌日、自分で言ったようにイルムガルト・カザハラ中尉は姿を消したのだった。 
まるでそこに、誰も存在しなかったかの様に、忽然と。  

黒の智天使 蒼の堕天使 ♯3(イングラム×イルム)


ゆるゆると、瞼を開ける。周囲は白い。
壁も、天井も、床も、そして自分の腕でさえも。
「・・・っ!」
彼は、唐突に起きあがり辺りを見渡すが、そこには誰もいない。
静かだった。
一切の音が感じられず、まるでそこだけ切り取られ、彼だけがそこに残されてしまっているかの様だった。
「・・・ゆ・・・め・・・なんかじゃ・・・ねえよ・・・な。」
そう、ぽつりと呟いた彼の視界に、ふと別の白いモノがあった。
「・・・?」
彼は、その白いモノが何なのかと思い、手でそっと触れ、そしてそれが自分の長い髪である事に気が付いた。
「・・・!」
確かに、自分の髪の毛は肩胛骨が隠れる程度の位置まで伸ばされてはいたが、こんな床に届きそうなほどの長さではなかった筈だ。それに、この白い髪が嫌いで、手間暇掛けて薄青紫色に染めていた筈だった。なのに、今、視界に入る髪の色は白い。
いや、それだけではない。
心なしか、確かに自分の腕である筈なのに、違和感を感じるのは何故だろう。
そうだ。白いのだ。いや、それは正確な表現ではない。
一度も陽の陽射しを浴びた事のないような、まるで蝋細工の様な血色の悪い色。
更には、実験や事故などで本来なら疵だらけである筈の腕が、生まれたての赤子の様に真っ更で傷ひとつないのだ。
「・・・どういう・・・こと・・・だ・・・?」
彼は、最早癖となっている、がしがしと片手で前髪を掻く仕草をしながら、自分の身に降り掛かった出来事を、ひとつづつ反芻する様に思い出してゆく。
確か、ヒュッケバインに搭載されたブラックホールエンジンの起動実験が、地球時間で正午ジャストに行われた筈だった。
搭乗者はライディース・F・ブランシュタイン少尉。
そして自分は、そのライディース少尉の予備員として登録され、実験の行われる月面にあるテクノチウム基地の地下にある、特殊技術研究室でカーク・ハミル博士と共に起動実験をモニター越しで見ていて・・・・・。

爆発が起きた。

その瞬間からの記憶は途切れており、気が付けば、瓦礫の中で青ざめたハミル博士が自分を見下ろして、何かを叫んでいた。ハミル博士自身も酷く血塗れなのに何故、自分の事ばかり気にしていたのか一瞬判らなかったが、その後直ぐに原因が判明した。
それは何故か。そう、俺には一切音が聞こえなかったからだ。
周囲では炎が上がるほど、爆発が起きていたのにも関わらず、その音が自分の耳には届いていなかったのだ。それがいったいどういう事なのか。

答えは、簡単だった。

だから自分は、これで漸くこの重たい蛋白質の塊という枷から解き放たれるのだ・・・と、これで漸く喜びの野へと逝けるのだと、思っていた。

そう思っていたのに。
また、此処に引き戻されてしまった。
「・・・俺は・・・まだ、使い道があるって・・・ことか。」
開いた両手をじっと見つめながら、彼はそう呟いた。


激しい爆発が至る所で起きていた。
ヒュッケバインのブラックホールエンジンが暴走し、その爆発した時のエネルギーが収縮と拡大を繰り返し、月面テクノチウム基地は壊滅状態に陥っていた。
「・・・ハミル・・・博士、何処です・・・か?生きていたら・・・返事をして下さい。」
力無く、おぼつかない足取りで瓦礫の山を避けるようにして歩きながら、イルムは掠れた声でカーク・ハミル博士の名を呼ぶ。その姿は、まるで幽鬼の様だった。
右上半身が赤黒く焼け爛れ半分崩れ、所々破れた皮膚の間からピンク色をした肉や白い網目状の繊維が見え隠れしており、青く染め上げていた筈の長い髪も、どす黒い血にまみれ、更には半分以上が縮れてしまっており、元の長さがいったいどの位だったのかすらも判らなくなってしまっているほどだった。
「・・・か・・・かは・・・っ。」
炎と熱風に煽られ、イルムは一瞬息が詰まる。
「ハミル・・・博士。お願いです・・・返事を・・・。」
霞んだ目で、必死になって辺りを見渡す。核兵器が投下されてもこの研究室だけは破壊されない。そう言われていたのにも関わらず、余りにも呆気なく、ここは瓦礫と化してしまい、生存者の姿すら感じられない。
もしかしたら生き残っているのは自分だけなのではないか、イルムはそんな思いに駆られてしまい、必死になる。
「・・・ここだ、中尉。わたしはここにいる。」
ふと、自分の足下から声が聞こえるのに気が付いたイルムは、ゆっくりと、足下に視線を落とす。するとそこには、大きな瓦礫が重なり合った僅かな隙間から、傷だらけの手が出ていたのだ。
「ハミル博士っ!・・・大丈夫です・・・かっ!」
よろよろと、転がり込む様にイルムはそこへ歩み寄り、直ぐに瓦礫の山を退かしだした。
焼け爛れた指先の肉片が、瓦礫を持ち上げる度にそれに付着し、イルムの右手の指先から白い骨が見え隠れし始める。
もう、痛みは感じられない。
「もうすぐです・・・今、出られるように・・・なりますから・・・。」
ひとつずつ、ゆっくりとイルムは瓦礫を移動させてゆく。
だが瓦礫を半分近く退かした辺りで、イルムの体力が急激に衰えだしてきたのだ。
「・・・中尉?どうした?」
決してスピーディとは言い難かったが、それまでコンスタンスに運ばれていた瓦礫がここに来て、ぴたりと途絶えてしまった事に疑問を覚えたハミル博士は、外の状態を窺いながらそうイルムに問い掛ける。
しかし、イルムからの返事はない。
「中尉っ!イルムガルト中尉っ!・・・どうした?大丈夫か!」
普段は、沈着冷静であるはずのハミル博士ではあったが、今、自分とイルムが置かれている状況を考えれば、事態は一刻の猶予も許されない状態なのだと判断していた。

そして・・・。

「・・・申し訳・・・ないが、ハミル博士・・・、重くて大きな瓦礫は、粗方退かしましたんで・・・自力で・・・出て来て貰えません・・・か・・・ね?」
遠くで爆発音がする。それが次第に近づいて来ているのが、地中にいても伝わって来ている。そしてその音に紛れ、イルムの掠れた声が聞こえた。
「・・・怪我を、しているのか?」
酷く、息が荒い。
普段のイルムからは到底考えられないほど余裕がない事が、その息遣いから感じ取れた。
父親や、自分、そして親友であるロバートから受ける「実験」と証した非人道的な扱いをどんなに受けようと、自らの選択したポーズを決して崩したことがなかったはずのイルムが、その仮面を外している。
「・・・自分的には、出来ると思ったんですけどね・・・どうにも身体が思うように動いてくれないんです・・・。」
その口調から、イルムの身体に何らかの変調が来している事が判る。
「・・・判った。何とか自力でここから出る努力をしよう。中尉は・・・そこで少し休んでいるといい。」
時間がない事は判っている。
だが、この状態で自分が行える事など微々たるものだ。
この瓦礫の山の中から早急に脱出して、イルムと合流し出来るだけ安全なルートを確保しつつ、此処から離れる事なのだ。
ハミル博士は、頭の中に叩き込んである脱出ルートを幾つかシュミレートしつつ、イルムが退かした大きな瓦礫の間にあった比較的小さな、自分でも退かせる瓦礫をひとつずつ丁寧に移動させてゆく。そして人ひとり、何とか通れる程の隙間が生じると同時に、ハミル博士は漸くそこから這い出す事が出来た。
「・・・さあ、急ごう。ここはまだ、危ないからな。」
穴から出ると直ぐ、ハミル博士はそう言いながらイルムの姿を探す。
「・・・っ!?」
ハミル博士の視界に入ってきたイルムの姿は、思わず言葉を失ってしまうほど、酷い状態だった。そう。自分の足下にある、瓦礫だと思っていた小さな山が、イルムだったのだ。 
その姿を、どう形容していいのか。今のハミル博士には判らなかった。
ただ、何とかひとの形を留めている、肉塊。
そうとしか、言いようがなかったのだ。
「・・・。」
自分が力一杯退かした瓦礫が、運悪く。
側の瓦礫で、横たわる様に身体を休めていたイルムの下半身に直撃しーーーーーー。
「・・・・・っ。」
自分が傍にいるのに気が付いたのだろう。イルムは閉じていた目をゆっくりと開く。
と、言っても左側の目だけだ。右目の瞼は、酷い火傷で皮膚が癒着してしまっているらしく、ぴくりともしない。それなのに、微笑んでいた。
ハンサムと言うには少々ファニーな雰囲気を醸し出していたイルムの顔は、半分は酷い火傷によって元の形が判らないほど赤黒く崩れ、攣っていた。

「・・・ひゅ・・・ぅっ・・・。」
熱風と煙で、喉も焼かれてしまっているらしく、声も出ない。
「・・・イ、イルムっ!死ぬなっ!死ぬんじゃないっ!今・・・今助けるからっ!」
ハミル博士は、その時初めてイルムの事を“中尉”ではなく“イルム”と呼んだ。
灰と黒煙で汚れた頬に、一筋の涙が伝う。
自分にとってイルムという存在は、単なる実験体のひとりだと思っていたのだ。
勿論、今もそう思っていた。
だが哀しいのだ。此処でイルムを失うのは。
こんな所で、あっけなく失ってしまっていい生命ではない。
恥も外聞もなくハミル博士は滂沱する涙を拭いもせず、必死になってイルムの名を呼びながら、彼を押し潰している瓦礫を退かすと、まるで襤褸切れの様になってしまった身体を抱き締める。
「死なせない・・・絶対に、死なせたりしないから・・・な。」
そう言ってハミル博士は、イルムの身体を抱き上げると、頭の中でシュミレートしたルートに向かって歩き出した。



「気が付いたか。」
白い部屋は、素肌のままでも居られる程、適温に設定されていたのだが、声の主が入ってくると途端に、数度は温度が下がってしまったかの様にひんやりとした空気が漂う。
「・・・イングラム。何しに来たんだ?極秘の任務があって、暫く帰って来ないんじゃなかったのか?」
赫い色の瞳がチラリと一瞥する様に、部屋に現れた男へ向けられる。
だがそんな視線にも動じず、イングラム・・・と呼ばれた男はベッドサイドに置かれたパイプ椅子にどっかりと腰を下ろし、腕組みをしたままイルムに対し冷めた笑みを浮かべたまま、
「どうだ?新しい身体の方は。傷ひとつない、真っ新な身体だ。気に入ると思うがな」
と、イルムが疑問に思っている事にあっさりと答えを示す。
「・・・新しい・・・身体?」
そんなイングラムの言葉に、イルムから剣呑な気が発せられた。
今にも射り殺しそうなほど鋭利なイルムの視線が、イングラムに向ける。
だがイングラムは、そんなイルムの鋭い視線を、まるで蝿でも払うかの様にその視線を軽く交わしたかと思うと、
「ああ。ヒュッケバインの起動実験は失敗したのは、判っているな。その事故で、貴様の身体は使い物にならなくなったのでな。オリジナルの身体から、貴様の “脳”を摘出して、以前から培養してあったコピーに移植したのだ。・・・人でなしも極めたり・・・と言うことかな。貴様の父親は準備していたんだよ、こんな時があろう事かを想定して・・・ね。」
そう言って、口唇を凍えた笑みの形に歪めた。
「それに、私としても貴様には死んで貰いたくはなかったのでね、好都合だったと言う訳だ・・・何しろ貴様は・・・他の誰でもない、私の手を取ったのだから・・・な。」
目を細め、イングラムは口元に湛えた笑みの形を崩さない。
そのイングラムの姿は、毒を孕んだ蒼い鱗粉を散らす、黒き翼を背に戴いた美しき魔物の様で、イルムの背に冷たいモノが流れ伝い落ちる。
「・・・ああ、そうだ。俺は、共犯者になる事を選択したんだったな。だから、死ねないんだ。おまえが・・・いったい何を考えて、何処へ行こうとしているかは判らないが、それを完遂するその時まで・・・俺は、おまえの手駒として・・・動く約束をしていたんだった。」
両手で顔を覆い隠し、イルムはそう呟く。
イングラムと言う名の毒を、自ら進んで己の臓腑に収めていた事を忘れていた。
「そうだ。この、欲にまみれエゴで腐り切った組織を内部から破壊してゆく。その準備をする為に・・・イルムガルト・カザハラ、私の為に働くがいい。それが、貴様に残された唯一の生き方だ。」


毒を孕んだ身体は、同時に毒になる。

イルムは、自らも毒になる事を選んだのだ。

それが、喩え総ての人類を敵に回す事になったとしても。


「・・・で、取り合えず俺は、これから何をすればいいんだ?」
顔を覆っていた両手を下ろし、イングラムに向けて顔を上げたとき、イルムの口元には不敵な笑みが浮かべられていた。 



黒の智天使 蒼の堕天使 ♯2(イングラム×イルム)


RTX?008Rヒュッケバインの起動テストを2日後に控えた日、リン・マオの元に緊急を要する連絡が入った。それはマオ・インダストリー総帥、即ちリンの父親に当たる人物が事故に巻き込まれ死亡した・・・と言うものだった。
普段なら最前線を預かる軍人である筈のリンが、肉親を失った程度で帰還を許される筈はない。だが現在の地球連邦軍に於いて、一民間企業である筈のマオ・インダストリーの存在は非常に大きく、今後の戦局に於いても多大な影響を及ぼしかねない非常事態であった為、リン・マオは早々の帰還が許された。
「・・・父が亡くなった。もう私は軍人としてここに居られない。血族が私以外に残されていないマオ家を継げるのは・・・私しかいないのだから・・・。」
イングラムを前にしたリン・マオは、俯き握りしめた拳を僅かに震わせながら呟くように告白を続ける。
「・・・でも、私は迷っている。軍人を続けていきたい自分と、家督を継いで父の意志を全うしたい自分がいる事に。」
そんな告白を、イングラムはじっと静かに聞いていた。
所詮、一介の部下に過ぎない筈のイルムを、自在に操れる自分の手駒にする為に取った手段。その矛先がリンに向いたのは、必然だった。
「・・・マオ・インダストリーは、私が此処へ就任する以前からの取引だからな。互いにそう簡単に切り捨てられる様な関係ではない。それがどういう意味かは、お前が一番判っているとは思うのだが・・・。」
しかしそれは、飽くまでも己に架せられた義務を遂行する為の手段でしかない。
その義務と任務を全うするのに、自分は生かされ、此処へ来たのだから。
当然、個人の感情なぞ考慮に入れる必要性はないし、そういう思考すら働かなかった。
「判っている・・・判っている・・・がっ・・・!」
イングラムの感情の籠もっていない科白が、リンの心に突き刺さる。 
ここにいるのがイルムだったら、色々な言葉を駆使し、リンを必死になって宥め励ましていただろう。だが彼女の目の前にいるのはイルムではなく、イングラムなのだ。
リン自身、期待をしているつもりはなかったのだが、それでも多少は甘い考えを抱いていたのかもしれない。そしてそれは、自分らしくない行動である事も思い知らされた。 
「感情が・・・目の前にある色々なものに流されるのは人間である限り仕方がないだろう。だが、今お前が一番やらねばならない事はいったい何なのか。それが判っているのなら、そちらを選択するべきだ。」
そう言い切ったイングラムの言葉に弾かれる様にリンは顔を上げ、そのまま彼の顔をじっと見つめた。それは自分が抱いていた淡い想いを、きっぱりとはね除けられた様な気がしたからだった。
「・・・くっ・・・。」
そして思い知らされた。とても身近にイルムと言う男性がいるというのに、自分は彼ではなく、今目の前にいる人物に惹かれていると言うことを。
別にイルムの事が嫌いな訳ではない。
どちらかと言えば好ましい方だ。
周囲からは節操無しだとか、いい加減だとか言われているが、彼だってナイメーヘンを次席で卒業したエリートなのだ。表面上の彼だけを見て判断するのは非常に愚かな事なのだと、リン自身幾度と無く体験して来ていた。
飄々とした中にも、己の信念に裏付けされた判断力と、その行動力は現在の連邦軍内でも群を抜いている。将来的には確実に自分よりも、軍の上層部に食い込み、その実力を遺憾なく発揮する事が出来るのはイルムの方だろうとも考えていた。

始めは、そう言った打算的な考えから、接触してきたイルムと交流を結んだ事も確かだった。だが、人の心は時が経てば変化する。
軽口を叩き、交際を求め幾度とアタックしてくるイルムに、自分が抱いていた本当の気持ちと建前がその狭間で揺れ動き・・・。
結局、断る要因もなかったので敢えて首を横には振らなかったのだ。
とは言え、縦に振った記憶もなかったのだが。
だがしかし今、目の前にいる人物に対してはどう言葉に表していいのかリンには判らなかった。愛と言うほど想いは強くなく、恋と言うほど淡すぎる様な気がする。
イルムの対する想いとは、全くと言っていいほど異なる想い。
そしてそれが、イルムを裏切ってしまう想いなのだと、心の何処かで警告を発し出したのは、いったいいつ頃だったのだろう。
リン自身、同時にふたりの男性を好きになれるほど気も多くはないし、手玉に取れるほど狡猾さもない。だから心の中は複雑に想いで絡み合い、気が付けば自分の判断では一歩も進めなくなっていた。誰かに、その一歩を踏み出すために背を押して欲しい。
いつの間にか、リンは自分で考えているよりもずっと、臆病になっていた。
「・・・そんなに片意地を張らず、気楽に考えた方がいいのではないのか?私が言うと真実味に欠けるが、時にはイルムの真似をしてみるがいい。」
口元に笑みを湛え、イングラムはそう言ってリンの肩にそっと手を添える。
「・・・イングラム少佐、私は。」
添えられた手に反応し、リンはその手を横目でちらりと見つめ、そしてゆっくりと正面を向く。そこには、人の心の中を見透かしているのではないかと思わず考えてしまうほど、濃い色のそれでいて硝子の様に澄んだ瞳が自分を見下ろしていた。
「・・・私は、判りません。どうしていいのか。どうすればいいのか。」

そして・・・。
そしてその結果・・・。

「おっ・・・リンちゃん・・・っ!」
ちょうど壁側にいたためイングラムは死角になっていたせいか、階段を上りムーヴィングウォークに一歩足を踏み出した状態のイルムからは、そこにリンがいる事だけしか確認出来なかった。
「・・・えと・・・? リン・・・ちゃ・・・ん・・・?」
一瞬イルムは、自分の目の前にいる人物に対して酷く間抜けな声しか掛けられなかった。
そこにいるのが、一方的ではあるが自分の愛する女性しかいないのだと思い込んでいたのだから、そのイルムの反応は至極当然な反応だっただろう。
「・・・ぁ、わ・・・悪いな。何か込み入ってるみたい・・・だから・・・また・・・。」
イルムはそう言うと、くるりと踵を返し慌てて今来た階段を足早に下りてゆく。
『・・・違うだろ・・・こんな態度じゃ・・・だめだ・・・。』 
足早に階段を下りつつ、イルムは混乱する頭の中でそう叫んでいるが、その感情と身体はまるで別物かの様で、彼自身、酷く慌てていた。
相手は、イングラムだった。
そうじゃないか、考えても見ろよ。リンは一度として自分に向かって“好き”だと、言ってくれた事があったかい?無かっただろう?
今まで人を本気で好きになどなった事がなかったのに、リンに出逢って初めて人を好きになったんだ。総てポーズ。総て偽りの思い。いつかはいなくなる相手に、心など開けない。今まで、そうやって自分の心さえ偽ってきた報いなのか?
一己の人間として、ひとりの男として考えれば、自分は酷く醜く歪んだ生き物なのだ。
一人前に人を愛し、家庭を築き、人類としての種の保存を全うする事すら許されてはいない自分に、一体何が出来るのか。
ならば、自分の想いを優先するよりも優先すべき事がある筈なのではないか。
そう。
リンがイングラムに惹かれているのなら、それを受け入れるべきなのは自分なのだ。自分にはリンを幸せには出来ない。リンは、自分の元では幸せにはなれない。

だがイングラムになら、それは出来る。

喩え、イングラムが得体の知れない過去を持っていても、そしてこれから何をして何処へ行こうとしているのかも判らないが、それでも彼は自分とは違う。
此処で生きているだ。イングラムは。
だが自分は違う。此処にあるのは、科学の発展の為に管理された遺伝子で生み出された《イルムガルト・カザハラ》 と言う名前を与えられた、虚ろな肉の器でしかないのだ。
人としての肉体が此処にあるだけの自分は、死んでいるのと一緒だ。
ならば、死んでいるのと一緒な自分と、生きているイングラムとでは、既に比較する対象にすらならないだろう。

だから心は、いらない。
過去の経験から、何度もそう心に刻んだはずなのに。
また、やってしまった。

研究棟を抜け、ハンガーを横切り、敷地内に申し訳程度にある小さなグリーンベルト地帯まで一気に駆けてきたイルムは、軽く呼吸を整え、そのグリーンベルト地帯を見渡す。このテクノチウム基地の規模からいったら、猫の額程度の僅かな緑。
その中でも、グリーンベルト地帯の延長線上にあるちっぽけな箱庭の様な庭。
最新設備で整えられた灰色一色の基地に、その緑の一角は取って付けたかの様な不自然さで、イルムはまるで自分を見ている様に感じられた。
「・・・俺は・・・ばか・・・だな。本当に。」
緑色の芝の中心に、多分常緑樹だろう木が一本だけ植えられていて、イルムはその木の根元に腰を下ろし、ぽつりとそう呟き、膝を抱き抱える様にして蹲る。
きっとこんな時は、大声を出して泣いたらすっきりするのかもしれない。
けれど今のイルムは、そんな簡単な事すら出来ないほど、心に余裕が持てていなかった。
いや、心だけではなかったのかもしれない。
でなければ、自分以外の人間が直ぐ側にまでやって来ているのに、全くと言っていいほど気が付かないという失態を犯すはずなかったのだ。

「・・・失礼。」
「・・・?」
ふと、柔らかなトーンだが、何処か冷めた口調を態としているかの様に聞こえる声が頭上から降って来たのに気が付いて、イルムはゆっくりと顔を上げる。
人工光に眩しいくらい反射し、銀糸と間違ってしまいそうなほど色のない見事なブロンドの青年が、イルムを見下ろしていたのだ。
「・・・あっ・・・す、済まない。何か様かい?」
目を眇めて、自分を見下ろしてくる青年に向かって問い掛けたイルムだったが、その青年の瞳の色に驚いてしまう。どう表現すれば良いのだろうか。
青・・・と表現するのには余りに深い色で、蒼と言うのには蒼すぎる。
瞳は宇宙に散りばめた星の如く美しく、虹彩に至ってははっきりと色味まで窺える。
人に在らざる色彩を持つ自分の目とは異なる、生きている眼。
「イルムガルト・カザハラ中尉・・・でしたね。隣り、宜しいでしょうか。」
そんな現世に住まう人間とは思えないほど美しい、そう、まるでビスクドールの様な青年は、薄く笑むと静かにイルムの横に腰を下ろした。
一方イルムの方はと言うと、全くと言っていいほど記憶にない青年から声を掛けられ、更には名前まで問われてしまい、少々戸惑っていた。
「・・・記憶に、無いと言った顔をされていますが仕方がありませんね。私は中尉ほど有名人では在りませんので。」
美しい青年は、ともすれば嫌味に聞こえてしまいそうな科白をさらりと口に出し、そしてチラリと横目でイルムの方を見た。
「・・・っ!」
普段ならそんな嫌味のひとつくらい、難なく交わすことが出来るはずのイルムであったが、今日はそんな余裕など少しも残されてはいなかったため、思わず相手に対してきつい表情を向けてしまった。
「・・・気に障ったのなら謝りましょう。ですが、事実を述べただけです。私とあなたでは・・・立場も存在価値も何もかも総て違いますから。」
そう言った青年の、光りを孕んだ金糸の様な前髪から見え隠れする、蒼い宇宙の宝玉の様な瞳が、金色の産毛の様な睫毛で僅かに覆われる。
「・・・立場・・・ね。ま、君が俺に対してどう思ってるのかは知らないけど、俺だってそんな・・・比較される様な立場なんかじゃねーぜ。」
イルムはふいと、青年を見ている視線を自分の足下に落とし、ぽつりと呟く。
「で、何でここに?」
「此処には・・・私の住んでいたコロニーの・・・好きな場所に生えている樹と同じ樹がある・・・ので・・・。」
先程までとは打って変わって、少しばかりはにかんだ笑みを浮かべ、青年はそう応える。
始めの印象は真冬の、凍える薄氷の張った湖を思わせる雰囲気だったのだが、それが僅かに融解し少しだけ印象が変わった。
「そっか。コロニーの出身か。俺は一回だけ、L5にあるコロニーに任務で行った事があるだけだな・・・。」
「・・・では中尉は、地球出身なのですか。」
「ああ。メイド・イン地球。メイド・イン・アメリカ・・・さ。」
しかしその科白には続きがあった。

『そしてテスラ・ライヒ研究所内の、太陽の光の届かない下層にある培養水槽の・・・ね』
と。けれどその言葉は胸の奥に飲み込まれ、決して表面には出てこない。

「所で、君の名前は?君は俺の名前を知っているのに、俺は君の名前を知らないってーのは、何か不公平じゃねーか?」
そして胸の奥底で燻っている言葉とは全くと言って良いほど違うものが、口から自然と発せられた。まるで、そう言う様にインプットされているかの様に。
「失礼・・・致しました中尉。私の名前は、ライディース・F・ブランシュタイン少尉であります。この度の、RTX?008Rヒュッケバインの起動テスト要員に選ばれ、ここに配属されました。」
そんなイルムの心中に、ライディースと名乗った青年が気付くはずもなく、座っていた姿勢を正して訊ねられた通り応えた。一方、何気なく青年の名前を聞いたイルムは、彼が名乗った名前にふと、思い当たるものがあり、つい先程まで己の思いに沈み込んでいた事すら忘れてしまった風な素振りで、「・・・ブランシュタイン、ブランシュタイン・・・と、あっ!もしや、あのエリート軍人一家の関係者ってところ?」
と、ライディースと名乗った青年の方へくるりと振り返って、そう問い掛けた。
だが、その言葉はその青年の不興を買ってしまったらしく、微笑を浮かべていても無表情に近い顔でイルムの方を見ていたのに、その顔が酷く強張ったものへと変化してしまったのだ。
『うわ、こりゃ地雷踏んじまったかな』

そんな表情を見せるライディースに対してイルムは自分の失言に気が付いたが、今更襲い。自分の本性を隠すために被ったはずの仮面は、時として自分の意志とは全くと言って良いほど異なる行為に及んでしまったり、思いも寄らない行動に出てしまう事があった。それが今、まさにその時だったのだ。
「・・・中尉の方こそ、ナイメーヘンでは次席で卒業なさり、更には次席だったとは言え実践成績はナイメーヘン創立始まって以来の最高記録だったそうではないですか。幾らブランシュタイン家が数々の軍人を排出している家系とは言え、その血族が総て優秀だとは限りませんよ・・・?」
冷めた口調にも増して、宇宙の星を散りばめた様に蒼く輝く瞳からすうっと色が失われ、凍えるほどに冷えてゆく様は、見ているこちら側も凍えてしまいそうだった。
「・・・あーーー済まねぇ。悪かったな。もしかして俺、地雷踏んじゃったんじゃねーか?ダメだなぁ俺。ほら、どーも俺って人の心の機微っ・・・てーの?そいつを汲む事が苦手らしくってさ、気分害したなら謝る。」
イルムはそう言いながら片目を瞑り、右手を目の高さまで上げると軽く翻して謝る。
だが、そんなイルムにとっては他愛のない、普段と変わらない態度と仕草が、ライディースにはとても新鮮に感じていた。何しろ、自分の周囲に群がってくるのは、ブランシュタイン家と言う名のブランドのお零れに肖ろうとする不逞な輩ばかりだったし、その他と言えば己の力量も計れず銘に胡座をかいて不遜な態度の者達ばかりだったのだ。
それがどうだ。今、ライディースの目の前にいるイルムと言う男は、確か自分よりも一階級上に当たる中尉のはずであったし、噂が確かならこのまま上層部に食い込むだけの実力があるらしい人物のはずだ。その為に、どんな人物なのか一度会ってみたかったのだ。しかし実際会ってみて、このフランクさはどうだ。
本当にこれが噂通りのイルムガルト中尉なのだろうか。
ライディースは、少々抱いていたイメージとは異なる事に驚きを隠せなかった。
そんな思いに駆られながらライディースは、イルムをじっと見つめる。
「・・・何?俺の顔に何か付いてる?」
けれどイルムの方はと言うと、ライディースの考えている事など気が付いた風でもなく、自分より下士官の、更には年下である相手に向かい、小首を傾げきょとんとした表情を返してきたのだ。
ライティースからすれば、それが大の大人のする仕草とは到底考えられなかった。
『本当にこの人があの、イルムガルト中尉なのだろうか。浮いた噂からすればそうかもしれないが、余りにも思っていた印象と異なりすぎる気が・・・。』
胸の中で擡げてくる思いをひた隠しながら、ライディースはそんなイルムに対し、
「・・・いえ、何でも在りません。気に為さらないで下さい。所で中尉、唐突で失礼かと存じ上げますが、中尉は何故この様な所にいらっしゃるのですか? 」
少々不躾かと思ったが、そう問いを投げかける。
自分は予定していたシュミレーションでの操縦訓練が、マシン調整の為に1時間ほど時間が空いてしまったのを利用して、此処で気分転換をしようと思っていたのだ。
だが来てみれば、そこには大きな身体を持て余す様に蹲って座り込んでいるイルムの姿があったのだ。
「・・・聞きたい?」
そんなライディースの問いに、何故かイルムは口元に自嘲気味の笑みを張り付け、反対に問い掛けて来る。
「いえ。このような時間に此処にいるのが少々不思議でしたので聞いてみただけです。お気に為さらないで下さい。」
自分の不躾な問いに、本当に答える気があったかどうかは判らないが、どうやら此処へ来た理由は余り良い理由からではなさそうだと、そのイルムの表情から窺い知れたライディースは、早々に話題を切り上げる事にした。するとどうだろう。
「・・・お前って、結構人がいいんだな。ぱっと見より素直そうだし。俺、お前のそーいう所、気に入ったな。仲良くしようぜ。」  
と、唐突にそう言い出すと、イルムはライディースの頭をくしゃくしゃと撫でる。
「あ・・・止めて下さい。髪が・・・。」
「いーじゃねぇか、髪っくらい我慢しろよ、べっぴんさん。」
イルムにくしゃくしゃにされた髪を、ライディースは両手で一生懸命整えながら抗議を唱える。何しろライディースの髪は、その色からも判る通り、非常に細く、猫っ毛な為に直ぐに絡まってしまうから始末に負えない。
「・・・ちょっ・・・ちょっと待って下さい。何なんですか、そのべっぴんさんというのはっ!そ、それと・・・困るんです。今からでは時間が足りなくて宿舎には戻れないんですから。」
「気にすんな、気にすんな。身嗜みはきっちりやっておかないといけないが、それっくらいなら軽く手で直しときゃいい。」
そんなイルムのマイペースぶりに、ライディースは善いように翻弄されてしまっていた。
だがライディースは、そんなイルムの態度にばかり気を取られていた為、今、彼がどんなに昏い眼をしているかに、少しも気が付かなかったのだ。


「・・・どうする?リン・マオ。イルムを・・・追う・・・か?」

イルムが走り去っていった廊下とイングラムを交互に見比べ、今にも泣き出してしまいそうな表情のリン・マオに向かって、彼女の目の前にいる男は冷酷にそう言い放つ。
「・・・出来る訳がない。少佐もご存じの筈です。私はイルムを前にすると・・・巧く喋られなくて・・・いつも・・・あの人を傷付けてしまう。なのに、あの人はそんな私に対していつでも優しく微笑んでくれて・・・だから・・・今行って何を喋っても・・・総て弁解にしかならない・・・それに更にあの人を傷付けてしまうだけだから・・・。」
普段のあの、きつい言い回しとは程遠い、非常に弱々し気で頼りのない物言いは、とてもリン・マオとは思えない。そしてその言葉から、彼女の不器用さが現れていた。
今、彼女の中では色々な思いが渦を巻き、その思いに翻弄されている。
「なら・・・このまま私は居なくなった方がいいのかもしれない。多分、このままあの人に会ってもきっと弁解ばかりして、一番言いたいことは何も言えないと思う。だから・・・私はこのまま家へ帰ります。そしてもう・・・二度とイルムには・・・会わない。」
リン・マオは小さく俯き、きゅっと口唇を噛み締める。
自分がイルムに対し、どれだけ卑怯な態度を行ってしまったか、十二分に判っていた。 だから、会わない・・・のではなく逢えないのだ。
「そうか。判った。お前がそれで納得しているのなら俺はもう、何も言わない。お前にはお前にしか出来ない、為すべき事があるのだからな。後の手続きは俺がやっておこう。それが、俺がお前に対してやってやれる、最初で最後の・・・。」
イングラムはリン・マオの耳元で囁く様にそう言うと、彼女の細い顎を指でそっと摘み、啄む様に口接けた。
「・・・・。」



そして、彼等は運命の日を迎える―――――――――――――。 

黒の智天使 蒼の堕天使 ♯1(イングラム×イルム)

ムーヴィングウォークのスピードでは遅いのか、長い髪を颯爽と靡かせながら、勢いよく歩いてゆく1人の青年がいた。片手には分厚いファイルを、もう片方の手は少々苛ついているのか、折角綺麗にセットして立てた前髪をわしわしと掻いている。
そんな余りに珍しい彼の姿に、ムーヴィングウォークを行き交う人々は振り返りながら小声で何かを話し合っていた。しかしそれすらも耳に入っていないらしく、彼は目的地である研究室の前までやって来ると大きく深呼吸をひとつした後、ドア脇にあるスリットへIDカードを通し、それから幾つかの数字を組み合わせたパーソナルIDナンバーを打ち込んでゆく。
「・・・。」
その姿は、普段の彼からは信じられないようなぴりぴりとした空気が漂っていた。そしてドアが開くと同時に、足早に中へと入っていった。
「親父はいるかっ!」
ここは一般研究員の立ち入りが制限されている区画なのだが、彼はその研究室の室長の息子であり、更にはその研究室で行われている研究の渦中にいる為に、出入りはほぼ自由だった。
「・・・ああイルム、漸く来たか。遅かったな、待っていたぞ。」
彼・・・イルムと呼ばれた青年の苛立ちに、全くと言って良いほど気が付いていないらしい男性は、この研究室の管理責任を任されている室長でありイルムの父親でもあった。
「今日はヒュッケバインの起動テストだって事ぐらい知ってるだろーがっ!なのに突然呼び出しやがって、何考えてんだよ、まったく。」
イルムはそう話し掛けてくる父親に対して、大きく溜息を吐く。
ヒュッケバインの起動テストとは言っても、今日行うのは飽くまでもリンクシステムと、駆動系統の管理の為の初期設定であり、本当の意味での起動テストではない。本来の起動テストは半月後であり、既にテストパイロットも決まっている。
しかし反対に父親の方は、そんなイルムの言葉を前もって予想していたらしく、
「判っている。判っているからこうしてお前を呼びつけたのだが・・・詳しい事はまず後だ。イルム、時間が押している、服を脱げ。」
と、唐突にそう言うのだった。
「なっ・・・!?」
今日は朝から任務の為にパイロットスーツを着込んでいたイルムにとって、父親の科白は寝耳に水の状態だった。
「上層部の決定で、ヒュッケバインの起動テストをするお前の身体に電極を埋め込む事になった。拒否は出来んぞ。」
その突然の父親の言葉に、イルムは一瞬だけ怯む。が、直ぐに、
「・・・ちょっと待てよ、じゃあリンちゃんやイングラムにもその処置を施すのかよっ!聞いてねーぞ。」
と、詰め寄った。
今日の起動テストには、自分の他に予備としてリン・マオとイングラム・プリスケンのふたりがいたのだ。リンは自分が具合が悪かった時の予備として選出され、イングラムは自分が開発した機体の管理だけでなく、パイロットの予備として自分から予備員として登録をしていた。
だが父親はそんなイルムの心情を知ってか知らずか、さらりとした態度で、
「その処置を施すのはお前だけだ、安心するがいい。」
そう、当然だと言う様な答えをイルムに返して来た。
「本当だな。」
「・・・当然だ。本来ならデータは沢山取れる方がいいのだが、お前が絶対口を挟んで来ると思ったからな。上層部がそう言い出して来る前に、総てのデータをお前から取る様にしておいた。」
その父親の言葉に満足したイルムは小さく頷くと、辺りを見回し、研究室の奥にある簡易オペルームへと向かう。
「で、俺はどうすればいい?」
オペルームには既に医局の人間が数人待っており、いつでも処置を施せる様に待機している。
「・・・数カ所の皮膚を切開し、各部位の末端神経節と電極を繋げヒュッケバインとのリンクシステムの起動具合をモニターで確認する。後はお前の脳内と眼底に埋め込んであるマイクロチップからのデータを随時取る為に、頭部へ電極を接続する・・・小一時間もあれば出来る簡単な処置だ。」
極秘と表紙に書かれたファイルを眺めながら、イルムの父親は何の感情も動かされた様子ではない態度で言い放つ。その冷淡とも言える姿は、普通ならとても父親が息子に対して見せるものではなかった。
「判った。じゃ、ちゃっちゃとやっちまってくれ。時間がないからな。」
一方イルムの方も、まるでそれが当然の様な反応を示しながら、オペルームへ行きすがらパイロットスーツを脱ぎ、他の研究所所員にスーツを放り投げる。そしてそれを慣れた手付きで回収する所員。

そこではそれら総てが、日常的に当然の様に行われて来たかの如く、自然な行動だった。

「・・・博士、イルムが何処へ行ったか知らないか?先程、緊急回線で呼び出された様なのだが、我々に何も言わず行ってしまった為にミーティングが中断したままになってしまったのだが・・・。」
ヒュッケバインの起動テストの為のオペレーションルームで今日のスケジュールの確認を取っていたイングラムは、部屋を出ていったまま戻ってこないイルムに対して不審感を覚えたのか、起動テスト時に行って貰うチェック項目の追加ファイルを届けに来たロバート・H・オオミヤ博士を呼び止め、そう問い合わせる。
同時に、ちょうどロバートからはイングラムの影に入っている為に姿を見る事は出来ないが、同じようにリン・マオが不審気な表情を向けているのが感じ取れた。
「うん・・・聞いてない・・・な。わたしはこれを少佐に届けに来ただけだから・・・。」
ロバートには、その視線が痛い。
上層部からの命令は自分の所にも伝わっていた。
それが、どの様な命令で、何を意図したものか。
こうしている間にも、イルムの身体には残酷な処置が施されているのだ。
起動テストを円滑に行う為に、麻酔などを一切使用しない処置は、どれだけイルムの身体と心に負担が掛かるか計り知れるものではない。
子供の頃からの幼馴染みだったイルムだったが、その頃からずっとロバートの記憶に残っている姿は、いつも痛々しいほどに巻かれた白い包帯姿だった。太陽の陽射しを浴び、陽に焼けた肌で明るく伸び伸びと育った自分と比べ、イルムは痩せて青白かった。それを際立たせていたのが、色素の抜け落ちた真っ白の髪の毛と、兎の様に真っ赤な瞳で、初めてイルムに会った時は子供ながら非常に怖かった記憶がある。
それから20年。当時の見るからに脆弱な面影は一切なくなってしまったが、イルムの身体にはあの時よりも更に多くの疵痕が残り、そしてそれは心にも変化を与えてしまっていた。
イルムの父親は、どうしてそこまで自分の息子に対して惨い仕打ちをする事が出来るのか。そしてイルム自身、何故その行為を何の疑問も抱かず享受し続ける事が出来るのか。ロバートには不思議でならなかった。
そして子供の頃、そんなイルムを助けたい・・・ロバートはそう思い続けていたのに、いつの間にこんな事になってしまったのか。
気が付けば自分はイルムの父親の下で働き、子供の頃の思いとはまるっきり反対の行為・・・そう。イルムを傷付ける側に廻っていたのだ。

いったい何処で、そしていつから歯車は狂い出したのか。

しかしロバートとイルムを取り巻く関係が変わっても、イルムの態度は決して表面上からは変化を感じさせず、子供の頃からと変わらぬ態度のままだった。だからこそ、ロバートの心は更に痛みが増す。
「・・・博士?どうされました?顔色が悪い様ですが・・・。」
ファイルを渡す為に来た・・・と言ったはずのロバートが、一向にファイルを渡してくれる気配がなく、更には彼には珍しく言葉を言い淀む様子にイングラムは何となくだがイルムに何かが起きている事を感じ取った。
だが、それが果たしていったい何なのかは判らない為、このお人好しで気のいい博士から何が起きているのか聞き出そうと思い、探りを入れて見る事にしたのだ。
「・・・いや、少し気分が優れなかっただけだから・・・気にしなくていいから。」
だがその表情から見ても、気分が優れないと言う理由だけで片付けられる些細なものではないだろう・・・と、イングラムが更に追求をしようと思ったその時、オペレーションルームのドアが開いた。



「よっ・・・悪かったな、ミーティング中断させちまって。」
ふたりの、イングラムとロバートの間に険悪なムードが漂い出し、その間でリンがどうしたものかと考え倦ね出した頃、当事者であるイルム自身が軽いノリでひょっこりと戻って来たのだ。
在る意味、絶妙なタイミングだったかもしれない。
ロバートにとって、イングラムにこれ以上追求されたくはなかったし、リンはミッションの前だと言うのに険悪なムードのままでは支障を来してしまうかもしれないと考えていた程だったからだ。
「・・・?」
だがその時リンは、ふとイルムの顔色が良くない事に気が付いた。緊急の呼び出しがある前まではそんなではなかったはずだ。
「・・・どうした?何かあったのか・・・顔色が悪いぞ。」
リンがイルムに顔色の事を問い掛けようと口を開きかけたその時、それを遮るかの様にイングラムの方が先にイルムへと問い掛けたのだ。
「・・・えっ?あ・・・ああ、どってこたあない。ちょっと気分が悪かっただけだ。ミッションに支障は来さねえよ。」
そう軽口を叩く様に話す姿は、普段と変わりがない。
「ならいいが・・・な。所でリン・マオ中尉。悪いが至急、ここに書かれているマニュアルのコピーを資料室から持って来てはくれないか。今、ファイルを読んでいて、少しばかり足りない事が判明したのでね。」
イルムに向かって話していたと思ったら、イングラムは唐突にくるりと向きを変えてファイルの手の甲でぽんっと叩き、リンにそう言う。
「・・・はい。了解いたしました。」
リンはファイルを受け取ると、一瞬だけ『今更何故・・・。』と言う思いに捕らわれたが、上官の命令には従わなくてはならないので、速やかに立ち上がると小さく敬礼し部屋を去ってゆく。そして残された3人は・・・否、ロブに向けて、イルムを挟み無言のプレッシャーを掛けるイングラムの姿があった。
「・・・ロバート・H・オオミヤ博士、あなたは私が何も知らないと思っているかもしれないが、それは間違いだ。私の手元には・・・今回のミッションにあたっての資料がある・・・。それがどういう意味か・・・判るな、イルム。」
一方イルムは、てっきりイングラムはロブと話しているとばかり思っていたのにも関わらず突然自分に振られ、思わずきょろきょろとふたりの顔を見比べてしまった。自分を中心に、ふたりの間で何の会話が為されているのか、イルムが気になるのは当然だろう。
しかしその言葉に反応したのはイルムだけではない。まるでイングラムの言葉に断罪されたかの様に、ロブの表情は激しく強張り握りしめていた拳をわなわなと震わせながらイングラムを睨み付けたのだ。
それは普段のロブからするととても考えられない様な表情だったが、その顔を幸いにもイルムは見る事はなかった。
「何がいいたいんだ?言いたい事があるならはっきりと言えばいいじゃないかっ!・・・親友を、子供の頃からの親友を、よくもここまで利用出来るものだってねっ!」
そのロブの言葉に、ぴくりとイルムが反応する。
そしてゆっくりと驚愕に満ちた表情でイングラムへと視線を移した。
「・・・知ってた・・・の・・・か?」
イングラムの言葉にイルムは思わず蹌踉めき、その場にあったテーブルで身体を支える。
「知っていた訳ではない。資料として与えられた書類に少々不自然な所があり、そこを少しばかり調べさせて貰っただけだ。それがたまたまイルム・・・きさまの出生に関してのデータだったと言う訳だ。」
手に持ったファイルをちらりと横目で見たのち、イングラムはいつもの冷静な口調で言い放つ。しかし、そんな心無いイングラムの態度にロブは思わず激昂し、
「それ以上言うなっ!今までイルムがどんな思いで・・・っ!」
と言葉を続けようとした。が、その言葉を続けることは出来ない。反対にイングラムの方が口元に薄い笑みを浮かべ、
「語るに落ちたなオオミヤ博士。貴様はイルムの父親の片棒を担いでいる癖に、イルムの事を心配しているようだが・・・それは偽善に過ぎない。幼馴染み・・・と言う関係を振り翳し、イルムの事を大切にしている様だが、それは自分の行為を正当化する詭弁だと思うのだが・・・。」
と、ふたりの関係を断罪するかの様に言葉を続けた。
「・・・だが勘違いされては困る。別に、私は任務に支障を来さないのなら何をしようと構わない。それは貴様達の勝手だからな。しかし飽くまでもイルムは私の部下だ。部下にとって不利益をもたらす様な行為は、避けて頂きたい。」
そしてイングラムが続けた言葉は、ふたりの心中を剔るものだった。
「し・・・支障を来すようならしていないっ!それに、おれたちがどういう風に育ち、どういう風な関係かも知らない癖に・・・っ!」
ロブは行き場のない拳を震わせつつ青冷めた顔色で、非情な言葉を吐き続けるイングラムに詰め寄る。
「・・・ああ、私は貴様達の関係がどのようなものか知らないし、知る必要もないと思っている。それは公私混同と言うものだからな・・・。」
まるでロブの激昂を煽るかのイングラムの言葉に、そこまでふたりの遣り取りをぼんやりと聞いていたイルムだったが、流石に雲行きが怪しくなった事に気が付き、
「・・・もう、止めてくれ。これ以上俺の事で不毛な会話をして欲しくない。まだ俺達にはやらなくちゃならない仕事があるんだ。こんな事でチームワークを乱したりするのは本意じゃねえだろ?」
と、ふたりの間に割って入った。
「それに・・・こんな厄介な身体でも結構気に入ってたりするんだ。な、イングラム。あんただって自分の好みで自分の身体を選べる訳じゃないだろ。この身体に生まれて来たからにゃ、一生付き合ってかなくちゃならない。ならこの重い蛋白質の塊と如何に上手く付き合って行くか・・・。俺はそう思って生きて来たし、これからもそう思い続けてくつもりなんだけどね。」
そう言いながらイルムは笑みを浮かべつつイングラムの顔を見つめ、そしてロブの方を見る。だがその目は、イングラムを見た時の笑みを浮かべたものではなく、昏い色をした無表情に近いものだった。
「ロブ、俺はな・・・お前のことが好きだ。それは子供の頃から差別する事無く接してくれたし、差別するヤツから護ってくれたから・・・そして今も変わらずにいてくれるからだ。が、それだけだ。それだけなんだよ。お前は気が付いていないかも知れないけど、その行為じたいが、俺と・・・自分の存在する位置が違うって事を示してんだよ。」
それはイルムがずっと心の中に抱き続けていた思いだったのだろう。
ふつふつと沸き上がって来る思いを、彼はずっと押さえ続け、そんな思いなどまるで抱いていないかの様な素振りをし続けてきていた。
軽薄な男と言う仮面を被り演じていたのだ。多分、今回の事がなければ、ロブの前でもずっと演じ続けていただろう。
「いい機会だったかもな。俺はな、イングラム。あんたには真実を知っていて貰いたかったのかも知れない。」
イルムはそう言いながら、ゆっくりと手袋を外し、そしてパイロットスーツのジャケットを脱ぐ。
「リンちゃんにゃ、こんな姿見せらんないんだけどさ・・・今の俺はリンクシステムがちゃんと起動するかどうか確認する為に、体中に電極が埋め込まれててね、結構辛いんだ。痛みには強くなったとは言え、ね。」
こうやって視界に入る場所だけでも手の甲や、首筋、頸椎部に口径5?、長さ1?程度の幾つもの筒状のプループが皮膚から顔を出している。
「・・・それが電極用のスロットか。ふっ・・・結構、非人道的な行為をしているものだな。多分何かの処置を施されているだろうとは思ってはいたが・・・ここまでとは・・・な。」
そう言った本人イングラム自身、他のラボで同じ様に人道的とは言えない実験をしていたのだが、その事実を知っているのはイルムに関する事項よりもはるかに極限られた人物しか知らない。
「・・・仕事と割り切っちまえばどうと言う事でもないんだ。けど・・・けどな・・・。」
イルムはそう言うと唐突に、持っていたジャケットを床に叩き付け、俯いたまま肩を震わせ、そして声も出さず嗚咽を始める。

痛い。苦しい。辛い。哀しい。

吐き出せない思い。
言葉に出来ない思い。
胸の内に秘められた思い。

存在理由。存在意義。存在価値。


誰も、彼へ『死』という慈悲すら与えてくれない。
そして彼の本当の意味での切なる思いは、決して叶えられる事はない。
何故なら、彼の中で幾度となく首を擡げてくる思考は、その度に力によって押さえ付けられてゆくのだから。
「判っている・・・私がきっと貴様を救ってやる。だから・・・それまで忠実に従っていればいい。そう・・・誰も貴様を救えやしない。この私以外は・・・な。」
そんなイルムの思いに気が付いたのか、薄い口唇を弓形に歪ませた笑みを浮かべたイングラムは、そうイルムに向かって囁く様に言葉を紡ぐ。
勿論、イングラム自身、イルムの思いを慮っている訳ではない。
更にイルム自身も、イングラムが決して自分の事を考えてそれを言葉にしているのではない事ぐらい、充分承知していた。
ただふたりの間には、ロバートが考えている様な、抱いている様な関係などではなく、互いの利害関係と少しばかりの『企み』と言った共通点があった為に行動を共にしているだけなのだ。
「・・・さあ、オオミヤ博士。あなたにはあなたの仕事が残っているだろう?起動テストまで、もう時間は余りない。後は私に任せて先に行って貰おうか。リン中尉が到着し次第、私達もそちらに行く。」
色々な思いに捕らわれ思考していた所へ、唐突にイングラムからそう言われたロバートは、思わずイルムの方を見てしまう。
だがイルムの姿は、イングラムが故意に移動した為、まるで匿われる様なかたちになっていたのだ。
そしてそのイングラムの行為を何の疑いもなく受け入れているかの様なイルムは、ロバートを拒絶している様にも見える。
「・・・済まねえロブ。俺は・・・自分が考えてたよりもずっと弱い人間だったんだ・・・だから・・・少し待ってくれ。今は少し無理だが、起動テストを行う頃には元の・・・陽気でお調子者のイルムに戻ってるから・・・。」
掠れ気味のイルムのその声に、ロバートは思わず、
「・・・もしや、泣いて・・・いるのか?イルム。」
と、問うてしまう。
だがイルムは左手で軽く前髪を梳き上げ、同時に前を向いて、
「んな訳あるかよ。俺が泣くなんて、有り得ねえ。」
そう言って、にやりと笑みを浮かべた。
「・・・そうだな、もし万が一俺が泣く様な事があったとしたら・・・それはリンちゃんにフられちまった時かもしれないな。」
その表情はいつものものに戻り、そして矢張りイルムは、ロバートの前では本心を見せ様とはせず、話をはぐらかすかの様に話題を変えたのだった。


今までロバートは、イルムと自分の間には『幼馴染み』と言う関係だけではなく、友人としても非常に良い関係を結べていたと思っていた。それは決して思い込みではなく、互いにそう思っていたのだと信じていた。
だがどうだ。こうしてふたりの間にイングラムと言う人物が割って入って途端、ふたりの間にあった均衡がこうも簡単に崩れてしまったのだ。
「・・・もう、この話題はやめにしよう。ずるずる続けていても俺が惨めになるだけだし・・・それにじきリンちゃんも戻って来る。」
手に持っていたジャケットを再び着込みながら、イルムはロバートに対してそう告げる。それはロバートにとって、イルムにやんわりと拒絶された事を意味していた。
「・・・。」
ロバートは、そんなイルムに対し一瞬だけ何か言いた気に口を開きかけたが小さく首を振る。しかし言葉を発する事なく飲み込んだのか、ふたりに対して後ろ髪を引かれる思いで部屋を出て行く事にした。
イルムの言葉を借りれば、これ以上会話をしていれば自分が惨めになるだけなのだ。自分とイルムの狭間の隔たりに。
父親よりも、リン・マオよりも、自分が一番イルムに近い存在なのだと信じ込んでいた自分に対して。


シュンッ・・・


無言のままロバートが部屋を出て行く。
その姿を、イルムはイングラムの背後からじっと見つめていた。
「・・・これで良かったのか?」
そんなイルムに向かって、振り返りもせずイングラムがそう問い掛ける。
「・・・ああ。でも良く察してくれたな。」
手袋を填め終えたイルムは、小さく溜息を吐きつつ呟く様にイングラムの問いに対しそう答えた。
「・・・そんなに都合良く人の心を察せる訳はない。ただ、貴様がオオミヤ博士を遠避けたそうだったから言葉にしただけだ。こちらにしても少々邪魔だったし・・・な。」
そう言いながらイルムの方へと振り返る。
濃く長い藍色の巻き毛がふわりと舞い、柔らかそうな前髪の間から見え隠れする意志の強そうな輝きを放つ切れ長の瞳が、イルムの心の中まで見透かしているかの様に細められた。
「・・・?」
その表情から、イングラムの真意をイルムは読む事が出来ない。
だが、何かを企んでいる事だけは読みとれた。
「・・・貴様は頭が佳い。だから言葉にせずともこちらが意図する事を汲む事が出来るだろうから敢えて言葉にはしない。幾らそれが人工的に生み出され与えられた能力だとしても、それを確実に利用出来ているのだから、それは己の能力なのだ。その能力を十二分に発揮出来る力が、貴様にはあるのだと覚えておくがいい。そしてそれを、私は必要としているのだと。」
その言葉尻から、イルムは確実にイングラムが何かを企んでいるだろう事を感じ取る。そして自分が必要とされている事も同時に察した。
それが喩え、自分を生み出した者達に対し造反する様な事だとしても、イルムはイングラムの企みに荷担する事が、己の存在理由を見出す手段なのではないか・・・と、思ったのだ。
そしてそれが、地獄行きへの片道切符だとしても。
「・・・付き合ってやるよ。あんたの企みに。俺はそれに応えられるだけの能力があるんだろう?・・・その能力を引き出せる力が、あんたにはあるんだろう?だがな・・・条件がある。」
イルムは口唇を歪め、シニカルな笑みを浮かべた。
「・・・何だ?」
笑みのかたちに歪んだ表情の向こうに、どの様な言葉を紡ごうとしているのか判らないイルムを見つめ、イングラムは静かに問う。
「・・・簡単な事さ。今後一切、リンちゃんを巻き込まない。それが俺のあんたに提示する、たったひとつの条件さ。その要求を受け入れてくれないなら、俺はあんたの敵になる。」
他人からすれば、どうという事でもない条件だった。
報酬や、見返りを要求するのではなく、他人である筈のリン・マオの安全だけを求めたのだから。
「・・・了解した。」
「商談成立。じゃ・・・宜しく頼むわ。」



そしてイルムはイングラムの手を取る。
それが、数日後に起きる事件の切っ掛けになる事など想像だにせずに。



「約束通り・・・リン・マオを第一線から退けさせたぞ・・・イルム。」

シュレーディンガーの猫(イングラム×イルム)

ああ。俺がもっとしっかりしていれば。
今更悔やんでも、遅すぎる。
予兆は、あったんだ。PTXの時代から。
だが俺は、目先の事ばかり気にしていたから。
時々発せられる言葉の端々に、行動の片鱗に、あいつからのSOSはあったのに…。
ただ手を拱いて、あいつの変わってゆく姿を見ていた訳じゃないけれど。
俺は自分なりに、その時出来る最善の方法を取ってきたけれど。
でも、いつも半歩遅いんだ…俺の行動は。
気が付いた時にはまだ、あいつの手を取ることが出来たはずなのに。
ちょっと目を離した隙に、あいつを、あいつの心を見失ってしまった。



リン…俺は、あいつを救えなかったよ。
リン…おまえは、こんな不甲斐ない俺を許してくれるだろうか。
子供達にばかり尻拭いをさせている、この俺を。
本当なら、最前線で闘わなくちゃならないのは、俺たち大人なのに。
どうしていつも、俺はこんななんだろう…。
悔やんでも悔やみきれない事態に陥って、初めて気が付くんだ。


…けど、どうしてだろう。
何故か違和感を感じるんだ。
俺は俺であるはずなのに。
何故か本当に今、俺はここにいるのだろうか…と。






いや。もしかしたら、俺はあいつに救われたかったのかもしれない。
あやふやな、曖昧な記憶と自分の存在の違和感とをあいつに照らし合わせていたのかもしれない。




俺は…イルムガルト・カザハラは…。
本当に存在していたんだろうか。
もしかしたら…俺はあいつと同じように……。




いや、考えまい。
考えても、無駄だ。
だってもう俺は………。






…リン…好きだったよ…。
今でも…これからも………。








「グルンガスト、コックピット直撃ですっ!」
一瞬、その悲痛なユンの叫びが、ハガネの艦橋を凍り付かせる。 
と、同時に轟音が艦体を揺らした。
断続的な敵の攻撃が激しい振動となって、艦橋にまで伝わってきていたのだ。






そんななか、大きなモニターは正面のグルンガストを映し出していた。





応戦するグルンガスト零式と弐式、ジガンスクード、ヒュッケバインシリーズ、SRXチームにATXチーム。激しい猛攻の中、彼等は善戦していた。
だがその中で唯一、グルンガストだけが被弾率が非常に高かった。そしてそれは、普段のイルムからは信じられないほどで、搭乗者である彼の焦燥を顕しているかの様にまるで操縦に切れがなかったのだ。
『イルム中尉っ! 無茶はしないで下さいっ!』
スピーカーから珍しくキョウスケの焦った声が響く。 
ハガネを狙っていたR-GUNリヴァーレのアキシオンバスターを阻むように、イルムのグルンガストがその間に割って入ったのだ。




そしてその結果…。





「イルム中尉はっ!」
副長のオノデラの問いに、ユンは振り返り、口唇を噛みしめ小さく頭を振り、
「応答ありません…」
と、苦しげな口調で続けた。
「…イルム中尉は、表には出さなかったが、イングラムと決着を付けたがっていた。二人の間に何があったかは不明だが…今は…彼の無事だけを祈ろう…」
オノデラはモニターを眺めながら、ぽつりと呟く。今の彼には、そうとしか言いようがなかったからだ。
そのモニターには、グルンガストが黒煙をあげて墜落してゆく姿が映っていた。
抵抗らしい抵抗すらする時間も与えられず、グルンガストはゆっくりと墜ちてゆく。
どう贔屓目に見ても、あの状態ではイルムは助からないだろう。
信じたくはないが、誰もがそう思っていた。
実際、アキシオンバスターを受けた時点で、イルムはコックピットごと一瞬のうちに蒸発していた。
多分痛みも、苦しみも感じなかったに違いない。
だが、何故。
全員の脳裏を、その言葉だけが過ぎる。
彼程の腕前で在れば、無傷とは言わないが、こんなに呆気なく墜とされるはずはない。
なのに…何故…。





「カタパルト被弾っ! 下部連装衝撃砲大破っ!」
各ブロックからのアラームが鳴り響き、凍り付いていた艦橋に再び時間が戻ってくる。
「まずは…眼前の敵を倒そう…グルンガストの…イルムの救出は…その後だ…」
艦長のダイテツは、自分を見つめてくる周囲の者達を見渡した後、オノデラに指示をする。
不満は、無かった。それは当然の事であったから。
戦いはまだ、続いている。
たった1人を救うために、艦を犠牲にする事など出来るはずがない。
彼等には、今、最優先で行わなくてはならない使命があるのだから……。




螺旋の記憶が静かに、そしてゆっくりと解けてゆく。
その記憶は、確かに「ひと」であった頃の、生きていた頃の記憶。
温かい母の温もりに抱かれていた、幼い頃の記憶。
父の手に引かれて、遊園地へ行った楽しかった記憶。
優しい眼差しや厳しい眼差しに包まれて、友という仲間達と過ごしていた記憶。
そして…柔らかな口唇と、冷たい眼差しが反比例しながらも、くすぐったい吐息が嬉しかった記憶。
すべて、真っ暗な箱の中で縮こまって、何かに怯えていた自分の中にあった記憶。
その箱から出たとき、その時が自分に最期の時が訪れるのだと、判っていた。
それらをすべて掌の上に乗せ、思わずその温もりに頬を寄せる。
もし、それが自分の本当の記憶でなかったとしても、確かに今、此処に、掌の上にある。



この美しく蒼い空。そして緑の大地。澄んだ碧い海。



目に焼き付けておこう。



白い雲と、爽やかな風、鮮やかな色彩に彩られた花々。




心に刻み込んでおこう。




自分が愛してやまなかった星、地球を。



大好きだった、人間達を。










目の前にあるのは、自分と等しい価値しかない存在の男。
今思い出したよ。
俺は、本来此処に居るべき存在ではなかったんだ。 
「螺旋の記憶」と言う名の偽りのメモリーを植え付けられただけの、ただの木偶人形。
本当の俺は、ヒュッケバインの事故の時、既に死んでいたんだ…。
イングラム…。
何で俺を生き返らしたんだい?
いや…その表現方法は間違っているかもしれない。 
イルムガルト・カザハラは別に生き返った訳ではないのだから。




だだ…。




別に俺じゃなくてもよかったんじゃないのか……。
それも、あんたへの敵愾心と不信感まで植え付けて。
あんたの手の内の駒にしておくには、俺の存在はちょっと「不自然」だろう?
でも、もし俺が生まれた存在に意味があったのだとしたら。
もしかしたら、奴の…
イングラムの中に眠る一欠片の良心からだったのだろうか……。





ああ。
もう…時間だ。
俺の存在が…もうじき此処から…無くなるだろう。 
何も残すことは出来なかったけれど。
でも…イングラム。
俺は…おまえの事、嫌いじゃなかったよ。





『…イルムガルト、愚かな男』
アキシオンバスターを放ったR-GUNリヴァーレのコックピットから、イングラムがぽつりと呟く。
グルンガストを昏い閃光が貫いた時、一瞬にしてイングラムの思考に飛び込んできたのはイルムの末期の想い。
交錯したイルムの思考と意識は、その普段からの彼からはほど遠く硝子細工の様に脆く、イングラムの心に触れると一瞬のうちに砕け散っていった。
『…自分の存在意義に振り回され、仮面を被る事でしか自己を保てなかった、哀れな男。何も考えず、ただ遺伝子と記憶に促されるまま生きてゆけば…どんなに楽だっただろう。…まるで…鏡に映った私そのものじゃないか…』




深い海の底の色にも似た藍色の瞳から、一筋の涙が頬を伝う。





『だが…私とは異なり…組み込まれた遺伝子と記憶の束縛から放たれ…解放された…幸福な魂…。もう二度と、生まれてくるな…愚かなイルムよ。我々のような存在は…私だけで充分だ…』
墜ちてゆくグルンガストを見つめ、イングラムはこれからの自分の事を思う。
組み込まれたプログラム通り、自分はリュウセイ達の敵となり、此処にいる。
そして、これからもずっと。
何度となく、幾度となく、自分は彼等の前に敵となり、時には味方となって現れるだろう。




それが、自分に架せられた宿命。
それが、自分に出来る唯一の存在意義。
自分はイルムの様にはなれない。
イルムが自分の様になれないと同じに。




『我々は…歯車だ。運命という、宿命と言う掌の上で…死の舞踏を…その踊りが死ぬ寸前まで“死ぬ”為に踊っている事すらも判らないまま踊り続ける歯車だ。そしてそれに気が付いた者は…疑問を抱いた者は…イルムの様に……』

闇(イングラム×イルム)

魂が、砕けてゆく。

心も、肉体も、そして想いも。

其処に在った・・・という証明さえも、総て。

四肢が爆風に煽られ、その熱風で炙られ躯が蝋細工の様に熔けてゆくのが、判った。

痛みは既に、ない。

ただあるのは、遺して逝く、者達への想いだけ。

偽りの、かりそめの魂だったとしても、私は確かに、其処にいた。

幼い魂の若者達を導く存在として、其処にいた。


けれど。

唯一、私を頼ろうとせず、己の道を歩み続け、そして私に手を差し伸べた男がいた。

反対に幼い者達は、愚かにも私に救いを求めるばかりで、私が何を求めているのか判ろうともしなかったのに。

そう。幼さ故の愚行、今更断罪など出来はしない。

だがその男もまた、私と同じくして終焉の時を迎えようとしている。

否。男は自ら選択したのだ。私と供に逝く事を。

私とは違い、男は酷く穏やかで優しい波動でずっと・・・。


死は、総ての生きとし生けるものに平等に授けられる。

貧者にも、富者にも、悪人や善人にも、老若男女総てに、死は平等に垂れ賜う。

誰も、死からは逃れる事は出来ない。


ああ。


願わくば、あの愚かな幼き者達が苦しまない様に。

願わくば、私の目前で微笑む男が迷う事無く、歓びの野に旅立てる様に。


そして。


凍れる煉獄に墜ちるのは・・・私だけでありますように。




少し手を伸ばせば、直ぐ触れられる位置にいるのに。

後少し手を伸ばせば、抱き締めてやれる場所にいるのに。

なのに、俺には触れることも抱き締めることも出来なかった。

俺はただ、おまえを救いたかっただけなのに。

傲慢だとか、自分勝手だとか、言いたければ言うがいい。

俺はそうやって生きてきたんだ。


「運命」なんてモノは努力すればどうにでもなる。でも「宿命」は違うんだ。


俺はずっと「運命」を自分の手で変え続けて来た。

そう生きるのが人間だって思っていたからだ。

けれど「宿命」からは逃れられなかった。

俺も、おまえも。

だから最後ぐらいは、おまえを抱き締めて

自分達が最後まで足掻いた事を子供達に見せてやりたかったんだが

どうやら、それすらも無理な様だ。

もう、俺の目はおまえの緩やかに巻く流れる長い藍の髪を見ることすら出来ない。

確かに目の前に、おまえがいる事は判るのに。


苦しくはないか。


哀しくはないか。


そして・・・辛くはないか。


俺が一緒に逝ってやる。


だから・・・もう、強がるのはよせ。



さあ。

彼方(イルム)

戦場に漂流する、沈められた艦船。

イルムは一時凌ぎとして、その艦船へとグルンガストを接岸させる。
ウイングガスト形態で定期巡回していた所、敵からの攻撃によって片方のバーニア部分が爆破されてしまい、片肺航行できなくなったが出来そうにないと判断したイルムは、その今は生きてはいない艦船の影へと一時的に機体を隠す事にした。
コックピットから出るとランドムーバーを使って接岸した艦船の非常用ハッチに取り付き、レバーを捻る。
グルンガストに搭乗したまま、救援を待つのもいいが、動きもしないのに搭乗していて何時狙い撃ちされるか判らない状態よりも、死んでいる艦船に乗り込み、そこから救難信号を友軍に送った方が幾分かは生存率が上がるかも知れないと判断した結果だった。
ハッチが開くと同時に中から勢いよく酸素に混ざってゴミや人だったもの、残骸が吐き出され、イルムは慌てて影に入り、落ち着いた所で中へと侵入して行く。

「…まだ、死んでないな」

独り言を言いながらホルスターから銃を抜き、セイフティレバーを外す。
酸素が勢いよく出てきたと言うことは、まだこの艦船の艦内循環機能は作動していると言うことで、外から見たよりもだいぶ良好な状態だと言うことが見てとれた。
だが、何が起きるか判らない状況なのだ。
イルムは銃を片手に、警戒しながらリフトグリップに手を掛ける。
小さなモーター音をさせながら、リフトグリップを掴んだイルムは艦内の通路を進んで行く。
彼が行こうとしている所は艦橋だった。
上手く行けば、ブリッジの通信施設がまだ生きているだろう。
何しろ外から見た状態と比べ、中は見事なほどきれいだったのだ。
もしかしたらまだ生存者もいるかもしれないと思ってしまうほどだったのだから。
だが幾つものエアハッチを開け進んで行くうちに、その甘い考えは捨てざるを得なかった。
イルムが侵入したハッチの周辺は生きていたのだが、その他の場所はやはり外から見た通りの状態だったのだ。
鈍色に焼け焦げ、溶けた配電盤が天井からぶら下がっている通路は、相当な熱量のものがここを通過していった事が判る。

「あっ…くそぅ…このドア半分溶けかかってるじゃねぇか…入れるのか…ここ」

ブリッジ入り口にまで来て、イルムは小さく舌打ちをする。
溶けかけたドアは当然の事、自動では開かないし、レバーを引いてもびくともしない。

「あーもうっ! 折角ここまで来たってのに」

パイロットに支給されている護身用の銃ではどうにもならない事は、直ぐに見て取れた。

「仕方ねぇ…サブ通信室に行くか」

半分溶けかかったドアを恨めしげに見つつ、イルムは今来た通路を戻る事にした。
サブ通信室は、このタイプの艦船だとブリッジから結構離れた位置にある。面倒だか仕方がなかった。
再びリフトグリップを掴み、先ほど侵入して来たハッチを通り過ぎ、暫く行った所でカタパルトデッキ行きのリフトに持ち替え、階下へと降りて行く。

「…っ!?」

ふと、救護室前を通り過ぎようとして、入り口のランプが点いている事に気が付いた。

「生存者が…いるのか…?」

イルムは密閉されている救護室のドアを見詰め、在り得ない話では無いと思いながら暫く考え込んだ。

「えーと…」

基本的に救護室のドアロックはどの艦船も同じ規格な為、コードは覚えていたので、イルムは手早く打ち込んで行く。
プシューッ
気圧の変化と空気の入れ替わる音がし、ドアが開く。

「…うっ」

…が。
そこはある意味地獄絵図だった。
…そう。生存者はいた。
生きているだけなら…と言う意味で。
パイロットスーツに身を包んでいても、血臭を感じてしまうほど、そこは凄まじかった。
みな、必死の思いで救護室まで辿り着いたのだろう。
辿り着く前に息絶えた者もいたのかもしれない。
イルムは、手に持ってた銃を見詰める。
カートリッジを含め、手持ちの銃弾は3パック。45発。

…充分だった。

1人一発。
彼等も軍人の端くれなのだ。
ただ生きているというだけな状態ならば、本人にとっても残された家族にとっても、苦痛でしかない。
それならば…。
自分がこういう状況下に置かれた場合、下す判断はひとつしかない。
あとは、自分の心の問題だけだった。

「…先に行って…待っててくれよ。文句は後から聞くからさ」




そう言ってイルムは、銃口を彼等に向けた

黒兄貴シリーズ-還る場所などない-(螺旋王×カミナ)

「自由が欲しかったんだと…さ」



3人目の俺はそう言って、鏡を見つめる。
俺は、その言葉に何処か羨ましいという感情が芽生えつつ、それでいて胸が痛くなった。
それは、決して俺達が抱いてはならない感情だったからかもしれない。

2人目の俺は、もうここにはいない。
そういう感情を抱いたということで断罪され、処分された。

「自由って、いったい何なんだろうな。お前が抱いた自由への憧れは、ニセモノの感情かもしれねえだろ。自由だなんて言葉に踊らされて…処分されるだなんて ほんとバカみたいじゃねえか。俺達の存在理由を忘れやがって…」

2人目が処分されると同時に、俺は目覚めた。

「もし疑問を抱いたり、思ったりしても、言葉にしちゃいけねえよ…2人目…」

本来なら、そういう記憶の移植はされず魂だけ新たな器に入れ替えて起こされるのが妥当かと思われるんだが、螺旋王は残酷な心の持ち主で、過去の記憶も同時に移植してしまうのだ。
それは、単なる魂の上書きなのでないのだと、これからも延々と魂へ服従という精神を刻み付けるための行為なのだろう。
1人目の記憶は出撃後の記憶が削除されており、それ以降の記憶がなく、それゆえ戦闘で死亡した時の記憶はない。ただ、1人目が誰に想いを抱いていたのかは、僅かに記憶している。

しかし、2人目は違う。

1人目が誰かに抱いていただろう感情に振り回され、それの想いに溺れ、そしてそれを手に入れたくて愚かにも主である螺旋王に「自由が欲しい」などと莫迦なことを抜かした為に、最悪な形で処分された。
螺旋王は、1人目の抱いていた感情も知っていたんだろう。
だから、3人目の俺が二度とそんな感情を抱いたりしないような形で、2人目を…。


思わず俺は自分の両腕を掻き抱き、怖気に恐怖し震える。
「自由が欲しい」という言葉を吐いただけで、王は哀れなものを見るような視線で俺を見たのち、狂気に震えた哄笑をあげたかと思うと激しい勢いで組み伏せ、言葉を発する暇すら与えられないほど殴打し続け、そのまま意識を失いかけた状態のところで、今まで以上の行為で俺を犯し…

そのままの状態で失敗作の獣人を廃棄する廃棄場へと打ち捨てられた。
当然ながら、そういう状況で廃棄された場合、辿る道はたったひとつだ。
死臭の充満する光のない隔離された小さな世界に打ち捨てられた、素手では力など獣人に適うはずもない人間の末路など…。

そのときの記憶が、今の俺にはある。
いびつに歪んだ黒い獣人の群れが、逃げる俺を襲う。
犯され、逃げて。
そして掴まりまた犯される。
そしてその行為が何度か繰り返され、身体中傷だらけになり、逃げることも動く事も出来なくなっても執拗に犯され続け、蛆が湧き腐敗が始まって死ぬ瞬間まで身体は黒い獣人達に犯され続けていた。
それを思い出すだけで激しい吐き気と、身体を貫く怖気に逃げ出したくなるが、その感情で俺を拘束しているんだろう。螺旋王は。


「そうだ。疑問は抱くな。俺はただ…此処にいて…王の言うまま生き、王の言うままに死ねばいいんだ」


鏡に映った自分の顔をじっと見詰める。
俺にはオリジナルの記憶は、ない。
そして何故、螺旋王がこの顔…姿にこだわっているかなども知らない。



「還る場所なんか…ねえんだからな…今の俺には。 俺が生きてける場所は、此処しか…ねえ…」



ギリと、鏡に映った自分の顔に爪を立てる。
青い髪、赤い瞳、藍色の刺青。

決して本来名付けられたはずの名前を、もう二度と呼ばれることはない。
呼ばれたとしてもそれは、自分ではなくオリジナルのものなのだ。
自分には名付けられた名前は ない。


「……」




そして言葉のない感情を飲み込むと黒衣で身を包み、感情を殺した仮面に表情を変え、黒いマントを纏い部屋を出て行った。








後にした部屋には、血のついた鏡の欠片が床に散らばっていた。

哭(シモカミ)

信じられないほどのカミナの血が、グレンのコクピット内を塗らしていた。
たったひとりの人間の身体の中にカミナの身体の中に、こんなにも大量の血が流れているだと言う事を思い知らされた日でもあった。





「カミナさんは シモンさんのラガンとグレンが合体した時には…既に…亡くなられていたんです…」

目を真っ赤に腫らしたロシウは、横たわるカミナの傍に蹲ったまま微動だにしないシモンに向けて、ポツリと呟く。
敵のガンメンからの集中攻撃を受けたのち、リーロンの操る機械から無情にも映し出された、カミナの生体反応の消失の瞬間。ロシウは、それを目の当たりにしたのだ。
あの瞬間、総ての音がかき消えたかの様に思えた。
強引な持論を目上の人間に対しても不遜な態度でぶつけ、揺るぎのない自信に満ちた意志の強い眼でしっかりと前を見詰める姿は、心底凄いと思っていたロシウだったが、その瞬間、言葉を失い漸く見出せた目標のひとつが呆気なく瓦解してしまった事に愕然となっていた。


「…カミナは、カミナのライフゲージは…尽きてるままだわ… なのに… モニターが壊れちゃったのかしら… 生きてるのかしら。死んでないのかしら、カミナは…ッ」

その後、ラガンと合体し、奇跡を起こすような勢いで敵を撃退して行く様を見詰めながらリーロンは、それでもモニターとそのグレンラガンを交互に眺め、震える口唇で混乱した様に呟いていた。

「グレンラガンは動いています。 ですから…きっとカミナさんは 生きているんだと思います。 だって…ッ あんなに凄い技を繰り出して…」

奇跡を見ているかの様に、熱の篭もった口調でロシウはリーロンの言葉にそう返した。





だが奇跡は、所詮奇跡でしかなく????。





止まない雨の中、大人達がカミナの亡骸をグレンから運び出し、全身を塗らす血を丁寧に拭き取り、ぱっくりと開き、剥き出しになった白い骨と、破裂して形を失った心臓が見えない様に胸へ包帯を巻き付け、地面へ敷いた深紅のマントの上にカミナを横たわらせる。
総ての血が出尽くして仕舞っているせいか、カミナの身体は色を失ったように青冷めており、藍に染められていた刺青が黒く沈んだ色へと変色していた。
そして太陽の赤を映した様に、綺麗な赤い色をした瞳はもう二度とみんなへ、シモンへ向けられる事はない。

「……っ」

声無く泣き続けるヨーコの肩を、慰める様にしてリーロンはそっと抱き締め、その頭を抱える様にして自らの胸へと誘う。
子供達は、カミナが死んだことに気付かず『どうして眠ったままなの』と、大人達を困らせていた。
そしてロシウは、蹲るシモンの背中をじっと見詰めていた。






ねえ おれを見て?

おれだけを見て?



ねえ どうして 目を開いてくれないの?



おれはここにいるよ?




ねえ…。



兄貴…。




涙も枯れ果て虚ろな瞳のシモンは蹲っていた身体を僅かに起こし、既に体温を失い冷たくなったカミナの身体にそっと手を伸ばす。
無骨ながら、優しく暖かかった腕は、もうシモンを抱き締めて来ない。

「…あ ぁあぁぁああぁああ……ッ」

黒々とした何かとてつもない重い何かがシモンの胸を突き、それがとても苦しく、そして押し潰されそうなほどに大きく、思わず自らの両腕を抱き締め、シモンは慟哭した。

白い風(シモカミ)

地上へ来てからもう何日経ったんだろう。
兄貴は、村にいた時と少しも変わらないでいる事を装っていた。
傍若無人で天衣無縫、荒唐無稽な物言いは、あの地下での生活の頃と少しも変わっていない。


…けど。

けど、違うんだ。


それは、おれにしか判らない、兄貴の変化。
それは、おれしか知らない、兄貴の横顔。


ヨーコにも、リーロンにも、それは判りはしない、兄貴の横顔。

この青い空を仰ぎ、兄貴がなにを考えているかは、流石におれには判らない。

地上に出てきて直ぐに見つけた、兄貴の父さんの白い骨が、兄貴を変えてしまったんだろうか。
地上の赤く乾いた大地の風に吹かれて、兄貴は何かを見つけたんだろうか。



何処か遠い表情で、青い空を仰ぎ見ている兄貴の腕を掴もうと一瞬だけ伸ばした手を、おれは躊躇い引っ込める。
決して言葉はないのだけれど、空を仰いでいる時の兄貴は、自分以外の総てのモノを拒絶しているようで、触れることが叶わなかったんだ。



ふと、兄貴がこちらを見た。
乾いた白い風が、おれと兄貴の間を吹き抜ける。


『どうした? シモン 俺の顔になんかついてるか?』


太陽の陽射しを背に受けて、兄貴はおれの方を向いてにっこり笑っているように思えたけど、影がそれを隠してた。


「ううん、なにもついてないよ。」


兄貴は、おれの返事に何も応えず静かに口元だけで笑みを造り、軽くおれの頭を撫でるように叩くと、そのまま横を通り過ぎて行く。






おれは、兄貴を護りたい。

俺は、兄貴が何を目指しているのか判らないし、敢えて聞く気もないけれど、俺は兄貴を助けて行きたい。
烏滸がましいと、生意気だと失笑されるかもしれないけれど。


こうして、兄貴の頬を優しく撫でる白い風のように、俺はずっと兄貴の側にいたい。
兄貴とずっと一緒にいたい。

キャプテン・シモンとチビカミナシリーズ -HUSH-A-BY-

すやすやと眠るカミナの髪を優しく撫でると、シモンは過去へと想いを馳せる。
ここにいる小さなカミナ以外、どの次元のカミナも総て死すべき運命から逃れられない。

しかし、この小さなカミナもいつかは此処から旅立つ意志を示すだろう。
カミナは、そういう人間なのだ。

シモンは痛いほど判っていた。カミナが閉ざされた空間にいつまでも留まっていられないという事を。
それが果たして明日なのか、5年後なのか、はたまた20年後なのかは判らない。
だが、いつかは自分の前から旅立つことだけはわかっていた。


その行為が喩え「死」を迎える事となろうと、カミナはいつまでも一所には留まってはいられないのだ。


その時、シモンはこの小さなカミナを笑って送り出すことが出来るだろうか。
シモンは小さく呻き、口唇を噛み締める。
一度手に入れてしまったものを、手放すことはそんなに容易いことではない。
それが、確実に二度と手に入らないものだと判っていればなおさらの事だ。

その瞬間を、シモンは何度も何度も心の中で描くが、答えは出ない。
言葉の鎖で括りつけて、部屋に閉じ込めておけばそれでいいのか。
しかしそんなことをしてしまえば、大鳥のように自由に羽ばたくカミナの魂はそこで砕かれてしまうだろう。そして、シモンの愛するカミナは永遠に失われてしまうのだ。


「…苦しいよ、兄貴。おれは…どうすれば…」


小さなカミナの髪を撫で指で梳る手が止まり、ゆるゆるとちょっとでも力を入れて掴めば折れてしまいそうな細い首筋へと視線を移しそして手が伸びる。

「……ん」

違和感を感じたのかカミナは小さく身じろぎ、小さく寝言のような声を発すると寝返りを打った。

「あ…っ あぁあぁあ……ッ」

シモンはその瞬間、自分が何を仕出かそうとしたかに気付き、その自らの行為に恐怖し慌ててカミナから手を離すと、ベッドの脇に頽れ顔を両手で覆い呼吸するのも苦痛なような喘ぎを漏らした。

キャプテン・シモンとチビカミナシリーズ -ピュグマリオン-

「お お き な ? ♪  お ふ ね の せ ん ち ょ う さ ぁ ? ん の お な ま え は ぁ ? ♪ そ の 名 も か っ こ い い キ ャ プ テ ン ・  シ ぃ モ ?ン ♪ 」

少しどころか結構派手に音程がズレた声で歌いながら、カミナは大きな荷物を両手に抱えて廊下を歩いていた。シモンとは色違いのマントに、矢張り色違いのパンツとブーツを履き、一丁前の姿で廊下を歩いている姿は、はっきり言って微笑ましい。
何しろ、自分よりも大きな荷物を抱えて歩いているのだ。
カミナが歩いているというより、荷物が歩いているようにしか見えない。
更に、音程がズレているだけでなく、即興で作ったわけのわからない歌が聞こえてくるのだ。
そんなカミナをやり過ごすクルー達は、肩を震わせて笑い声を殺すしかなかった。

「リーロンさぁーん いわれたハコ、もって来たー♪」

サブブリッジのハッチの前まで来ると、持っていた荷物を床に置き、インカムがセットしてあるコンソールパネルに背伸びしてスイッチを押し、フックに引っかかっているインカムを手に取ってそう告げる。

『お使いありがとう。今開けるわ』

インカムから聞こえてきた声に、カミナはにっこり笑って再びフックにインカムを引っ掛け、床に置いた荷物を持ち上げる。すると同時にサブブリッジのハッチが音を立てて開いた。

「この中に、いわれたものはいってるって、そうこのかんりにんさんいわれたよ」

ハッチが開くとカミナはとことこと中へと入って行き、忙しそうに作業をしているリーロンの横へその荷物を置いて、箱の中に入れてあった書類を取り出してリーロンに渡す。

「サインくださーい」

リーロンは渡された書類にサインを添えるとカミナへその書類を返し、

「カミナはえらいわね。覚えるのが早くて、嬉しいわ」

そう言ってカミナの頭を撫でる。
するとカミナは、リーロンに褒めらたことに対して本当に嬉しそうに笑うと肩を竦めて、

「だっておれ、早くシモンさんのやくに立つようになりたいから。早くおおきくなって、ひとりべやにうつらないと。ずっとシモンさんのおへやにはいられないからね。このふねのせんちょうさんなんだから、シモンさんは。せんちょうさんのおへやにおれがいたら、ヘンでしょ」

小首を傾げてそう言ったカミナに、一瞬だけリーロンの口元が引き攣るが、直ぐ何事もなかったようにきゅっとぽってりとしたふくよかな口元を引き締めて

「そうね。早く大きくなってシモンの片腕になりなさいな? シモン喜ぶわよ。 でも、ちゃんと勉強もしないといけないわよ?」

そうカミナに言って微笑む。

「うん。いっぱいべんきょうして、あたま良くなってシモンさんのためにはたらくんだ。おれ」

その眩しいカミナの笑顔に、リーロンは目を細め慈しむ様な仕草で何度もカミナの頭を撫でた。

「じゃ、まだおれしごとあるから。また来るね」

余りに優しく撫でられて、流石に居心地が悪くなったのか、それとも照れ隠しなのか、ほんのりと頬を染めたカミナはその場で両手をばたばたと大きく動かし、リーロンから離れると渡された書類を抱えてぺこりと頭を下げた。
そんなカミナの可愛らしい仕草に、リーロンは小さく吹き出すと

「頑張ってらっしゃい。お仕事」

そう言って軽く手をひらひらと扇ぎ、慌てたようにサブブリッジから出てゆくカミナを見送った。

「…大きくなる… か…。 そうよ…ね…言える訳ないわよね…あんな小さな子に…」

廊下を走って行くカミナの小さな背中を見送りつつ、リーロンはぽつりと呟く。



そう。


この艦から降りない限り、時は永遠に止まったままなのだと。
この神に見放された限られた空間に存在している限り、自分達は時の流れから切り離された永劫の時間の旅人なのだ。


それを、小さなカミナに告げられるはずもない。
告げたとしても、まだ理解など出来ないだろう。


「でも、いつかは言わないといけないのよね…シモン、あなたは真実をカミナに告げられて?」

キャプテン・シモンとチビカミナシリーズ -SO SWEET SO LONELY-

「ん…」

ガバッと起き上がろうとしたが、胸に走る痛みに思わず顔を顰め苦しげに呻くと、小さな手がその痛む自分の胸を押さえる。

「…あ…れ…?」

胸を包帯で巻かれ、手首に細いチューブが刺さっており、一瞬自分が何故こんな状態なのか判らず混乱した表情で周囲を見渡す。
そこは見慣れない真っ白な部屋で、その真っ白な部屋のふかふかな矢張り白いベッドに自分が寝かされている事に気付くと、痛む胸を押さえて今度は慌てずゆっくりと起き上がった。

「あら、起きたの? まだ無理しちゃダメよ」

カミナが寝ていたベッドから少し離れた位置にあるデスクに向かい、何か書類を整理していた水色の髪の背の高い人物がチラと起き上がったカミナを横目で見遣り、そう声を掛けてきた。

「…あ。 はい」

混乱した頭のまま、カミナはその人物に言われるまま、再びゆっくりとベッドの中へと潜り込み、真っ白なリネンをいったん頭まで被ってからちょろりと目の辺りまで出す。
カミナにとって見たこともない感じのその人物は、男性なのか女性なのか判らず、どう声を掛けていいのかわからなかった。

「リーロンよ。カミナ。リーロンって呼んでちょうだい」

書類とカミナを交互に見渡し、小さくほっとした表情を見せると、カミナの目を白黒させている表情に気付いたのかそにっこりと微笑んで答えてきた。

「リーロン…さん? ここは…?」

自分は確か、村へ帰ろうと船を降りたはずだった。
しかし、タラップを降りたところからの記憶が一切ない。

「…艦の中よ。もう大丈夫ね。シモンを呼んであげる」

書類とカミナ、そしてリーロンの向かっているデスクにあるモニターに映し出された映像を全て見渡し、1人で納得した表情をすると、天井から下がっているコンソールアームを手で下ろし、流麗な手付きでそのコンソールのキーボードを軽く叩き、小さなかわいらしい電子音を鳴らす。

「ん♪ よし…と。シモンが飛び込んでくるのが目に見えちゃうわね」

ぽってりと厚い口唇を人差し指で軽く抑えつつ、小さく笑う。




「あに…きッ じゃなくてッ! カミナが目覚めたってほんとッ!!」

しっかりと閉じられた扉の向こうから、何処かに引っかかりすっ転んだりする大きな音や、バタバタと足音を立てて現れたシモンは、ドアを開けるなり早々にそう叫んで飛び込んできた。

「…ね♪」

そんなシモンを見て、リーロンはウインクしつつカミナにそう同意を求めると、リネンを頭まで被っていながらカミナもこくりと頷いた。
けたたましく医務室へ飛び込んできたシモンは、何か含み事がありそうな顔つきで視線を交わしている二人を交互に見て、一瞬訝しげな表情をするが、カミナの顔を見ると直ぐにそんなことなど忘れてしまったかの様にベッドへと飛び掛るように駆け寄り

「もう大丈夫なのかッ! 傷は痛くないッ!」

と、矢継早な問い掛けをしてしまい、ベッドに寝ているカミナはそんなシモンに対し、驚いた表情で固まってしまうのだった。



「そうね、あの子は私達と関わった事で不文律の環から外れてしまったのかもしれない。そして…あの場所でいったん死んでしまったことによって…17歳までに必ず死ぬという因果律の環から逃れる事が出来たのかもしれない…まだ、あの子が17歳になるまでどうなるかわからないから…飽くまでも仮定の話だけど。それに…次元の違うもの同士がいつまでこうやっていられるかも不安だわ」

艦に搭載されている永久駆動コンピューターからのデータと、カミナのデータを照らし合わせ、リーロンは薄く微笑んでそう答える。
飽くまでも仮定の話を、さも事実の様に語ることは、リーロンにとって多少なりとも不甲斐無さを感じているのか“仮定”であることを強調していた。

「ふむ。私には良く判りませんが、もしかしたらカミナと言う少年は、この艦の中で存在するだけなら、われわれと同じ存在でいられる…と言う事になるのでしょうか?」

視線が何処を向いているか判らないような色彩のサングラスをかけた副官が、リーロンの打ち出したデータに素早く目を通しながら、要所要所のチェック項目に重点を置いて計算式を照らし合わせ小さく溜息を吐くと、そうリーロンへと返す。

「そう。私の数式が当たっていれば…の事だけどね。まあ、今更あの子を地上に戻せやしないんだけど…」

別室でシモンに新しい服を準備してもらい、更には着替えをも手伝ってもらっているカミナと甲斐甲斐しくカミナへ着替えをさせているシモンの姿をモニターしながら、軽く肩を竦めてリーロンは数字が羅列したレポートをパタリと伏せてテーブルに置く。

「艦長に…それをお伝えいたしましたか?」

リーロンの軽口を言っていながらも深い溜息の意味に、副官はその不安定な存在の危うさを知り、矢張り小さく溜息を吐きモニター越しの二人に視線を移す。
傍から見れば、仲のいい親子にも見える二人だったが、こうして接触し続けていることで、時空に歪みが生まれ続けてしまうかもしれないという危険性もあるほど、その存在の危うさは不確かで恐ろしいものだった。

「言えるわけないでしょ。あの姿を見て、言える人がいたら会ってみたいわ…」

デスクに肘を突いて、手の甲に顎を乗せリーロンはぽつりと呟く。
永く、本当に長い旅路の果て、漸くこうして言葉をちゃんと交わせるカミナに出逢えたのだ。
その言葉に出来ない想いを挫く様な野暮な事など、出来るはずもない。

「…そうですね。艦長がどれだけ我々に今まで噤んで来た言葉があるか…傍にいれば否応でも判ります…」

「でしょ。けど…本当は言うべきなんでしょうけどね…」

複雑な表情をしてモニター越しの二人を見詰める副官に薄く微笑みかけ、リーロンは目配せする。

「さ、私達はお邪魔だわ。こうしてモニター越しで見られているのにはとうに気付いてるでしょうからね。そろそろ退散しましょう」

「はい。今日のところは艦長ではなく、シモンさんでいてもいいでしょう。漸く焦がれていたカミナさんが目覚めたんですから…でも、明日からは通常通りに戻って頂きますけどね」

「あら流石ね。優秀な副官さん。きっとシモン、泣くわよ」

「泣いても、ちゃんと仕事だけはして頂きます。艦長なんですから」

二人は互いを見返しつつ、モニター越しの二人を見てそう会話を交わし、そっと部屋を出て行くのだった。




一方、別室でそんな会話がなされている事など知らないシモンは矢継早に問い掛けつつ、カミナに抱きついてしまったのだが、その瞬間、その唐突な行為に吃驚して硬直してしまった自分の腕の中の少年に驚き、慌てて離れて恥ずかしそうに照れて頭をポリポリと掻く。
そして、小さく蚊の鳴く様な声で

「ごめん。つい…嬉しくて…」

と、一言そう言うと頭を下げたのだった。


簡易パジャマを脱ぎ捨て、カミナはシモンに渡された服に袖を通す。
既に、今まで来ていた服が着れなくなってしまっていたために、シモンが生活雑貨調達班から一式強奪してきたものだった。
少し大きめなブカブカなシャツに大人用のハーフパンツ、そしてやはり少し大きめのブーツで、カミナはそれをシモンに勧められるまま、もそもそと着替えたのだ。
包帯で包まれた胸の部分を保護するために、医療用の固定ベルトを付け、その上からぶかぶかのシャツを着込み、ハーフパンツは当然ながら大人用でウエストが大きいためベルトで締めて調節をし、大き目のブーツもゲートルで締めて固定する。

「きれたよ?」

とんっとベッドから降り、ベッドサイドの椅子に座っているシモンの方を向いて小首を傾げ着替え終えた事を訴える。

「胸は…痛くない?」

カミナが思っていたよりも簡単に床に飛び降りたので、シモンは少し不安気な表情になり、自分の傍まで小さな足音をさせてやってきたカミナに向けて問いかける。

「いたくない…ううん。ちょっといたいかな?」

傷のある胸元にそっと手を当て、ズキリと痛むその胸に少しだけ顔を顰めつつ、それでも小首を傾げシモンへ向けて微笑む。
本当は痛かった。
しかし、このシモンの憔悴した顔を見ると、流石に子供でありながらもカミナは本当のことを言えるはずもなく、小さな手でシモンの服の裾をそっと掴み

「でも、まだあるくのはいたいかもしれないから、そとへはいけないよ」

そう、言葉を続けた。




そして医務室の小さなソファに2人は移ると、シモンは自分に水を、カミナにはリーロンに言われていたオレンジ色の甘いシロップで味付けしてある痛み止めと抗生剤の入った水薬をカミナに渡し、飲むように進める。
当然、最初はカミナは薬だとわかると嫌がったが、甘いシロップで味付けしてあるから不味くないとシモンが一言付け加えると、渋々ながら飲みだす。
実際、不味くはないよ。ただ美味しくないだけで…と、シモンはカミナが薬を飲みだすとそう言ってクスっと笑うと、そんなシモンに対してカミナは口をへの字にして抗議した。

「…あのね、シモンさん」

飲み終えた薬のコップをテーブルの上にコトンと置き、床に足の届かないソファに座ったカミナは所在無げにその足をブラブラさせつつ、正面で自分を見詰めてくるシモンに向かって一生懸命、語彙がないなりに自分の中で言葉を捜しながらシモンの名前を呼んだ。

「…なに? カミナ」

もうシモンは、カミナを兄貴とは呼ばなかった。
兄貴は兄貴、カミナはカミナなのだ。

「おれね、ほんとうは…あの村のにんげんじゃないんだって」

足をブラブラさせつつ、シモンを見詰めていた今にも零れ落ちそうなほどくりくりと紅い大きな瞳が、不意に何処か視線を泳がせたかと思うと、唐突にとんでもない言葉を放った。

「…え?」

そのカミナの言葉に一瞬何事かと思い、シモンは間の抜けた声を発した。

「うん… おれね、ジーハ村のにんげんじゃないんだって。とうさんが…ジーハ村にくるとちゅうの谷で、ないてたあかんぼうのおれをひろったんだって…」

両手をソファの腰掛の部分に突き、ブラブラさせていた足の動きを止めると大きな眼が伏し目がちになり、泳いでいた視線がゆっくりと床へと移動する。

「なんだっ…て…?」

シモンは、その突然のカミナの告白に言葉を失う。
自分のいた次元のカミナもそうだったが、今までこんなことは聞いたことがなかった。


 カミナが、ジーハ村の人間じゃないって…いったいそれはどういう…。


シモンは混乱する頭でカミナを見詰めるが、カミナは何も考えていないかの様に、少し舌足らずな口調で言葉を紡ぎ続けた。

「とうさんが、ジーハ村にくるとちゅうであかんぼうのなきごえをきいてね、そのなきごえがきこえるところまでいったら、あたりにいっぱいハコがちらかっていて、そのハコの中のひとつだけフタがあいてて、そのハコにおれがいたんだって」

そこまで言うとカミナは再び顔をあげ、シモンを見詰めた。
そしてその零れ落ちそうなほど大きなカミナの紅い瞳がシモンを見たとき、シモンはその眼の中に螺旋を見つけ、言葉を失い顔色が青褪めたはじめたのだった。



そろりと立ち上がるとシモンはソファに座るカミナの前へと歩み寄り、その小さな両肩を両手でそっと掴み、大きな深紅の瞳をじっと見詰める。

「…それは、本当なの…か?」

カミナの言う事が信じられないわけではないのだが、もう一度確かめるようにシモンは問いかけた。
しかし、こくりと頷くカミナの答えは先ほどと同じもので。

「ニア…ッ! 今いいかいッ?」

カミナの言葉を心の中で反芻し、シモンは視線をふと移すと、誰もいるはずのない場所に向けてそう大声を出す。

「…?」

そんなシモンに、カミナは吃驚した表情で見詰めていた所へ、何処からともなく

『なぁに? シモン。何かあったの?』

と、おっとりとした柔らかな優しい声が降って来たのだ。

「ちょっと、確かめたいことがあるんだ。もし大丈夫なようなら来て欲しいんだけど」

その降って来た柔らかく優しい声に、シモンはそう問いかけると、声の主はクスクスと小さく笑い声を上げて、

『私に用事があるんでしょ。大丈夫とか大丈夫じゃないとか…そんなことは関係なくて』

そう言いながら、ふたりの前にふわりと姿を現したのだ。



「…!」

一方カミナと言えば、突然、ひらひらと白い花弁のような可憐なドレスを着た女性が視界に現れたことに驚き、呆然とした表情でその女性を呆けたような表情で見詰めていた。

『あら、あらあらあら。ちいさなカミナの兄貴さんね? ごきげんよう』

呆然と自分を見詰めてくる少年の姿に、女性は優しく微笑みを浮かべる。

「…す…すけて る…」

カミナは目の前にふわりと突然現れた女性を指差して、ただでさえ零れ落ちそうなほど大きな瞳を更に大きく見開いて、酸素を求める魚の様に口をバクバクとさせた。

『…あらシモン。カミナの兄貴さんには、何も言ってなかったの?』

何処かズレた頓珍漢な口調で女性はそう言うと、

『はじめまして、カミナの兄貴さん。わたしはニア。シモンの妻であり、この艦のメインコンピューターでもあるのよ? よろしくね』

ふわふわと2人の傍までやって来ると、花が綻ぶような軽やかな笑顔をカミナへと向けたのだ。

「シモンさんのおよめさんッ!」

ニアの説明で、カミナは2人を交互に見渡し、かっこいいシモンと綺麗なニアの二人がお似合いだと思ったのか嬉しそうに

「いいなあ。きれいなおよめさんと、かっこいいおむこさん」

と、憧れるような表情を見せつつも

「でも、メインコンピューターってなあに?」

聞いたことのない言葉に、不思議そうに小首傾げてシモンに問いかけた。

「…そんな紹介の仕方してもカミナにはわかんないよ…」

当然ながら重要な部分が欠落したニアの説明に肩をがっくり落としつつも、

「…ちょっとした事情で、ニアはとっても酷い怪我をしてしまってね、身体が眠ったままになってしまったんだ。でも、いろんな人達に助けてもらって、眠った身体のままだけど、こうして魂だけは動けるようにしてもらったんだよ」

と、シモンは丁寧に説明をしたつもりだったのだが、それでも今ひとつ子供のカミナにはピンと来ないようで、不思議そうな顔で2人を見詰める。
そのくるくると激しく変化する表情に、シモンはニアを呼んだ本来の理由を思い出し、

「ニア。ちょっとカミナの眼を見てくれる…かな」

眉根を寄せ、シモンは自分の横へとやってきたニアに向けて真剣な面持ちになる。

『…カミナの兄貴さんの目ですか? わかりました』

柔らかく微笑んでいたニアはそれまでとは異なり、シモンの様子を敏感に感じ取って真剣な面持ちになったかと思うと、身体を屈めてソファに座っているカミナの顔を覗き込んだ。
そんな2人のやり取りを、カミナはきょとんとした表情で見ていたが、この世のものとは思えない儚げで美しいニアに見詰められたことに流石にドキドキしてしまったのか、居心地が悪そうにもぞもぞと落ち着かない。

『……お とう さ ま…?』

カミナの深紅の瞳を覗き込み、そして強張った表情でシモンの方を振り返る。
シモンはシモンで、そんなニアを予想していたのか、ごくりと息を飲んだかと思うと小さく頷いて、

「ああ。ロージェノムの…君の父の…螺旋の瞳だよ…」

と、言葉を続けたのだった。



『…お父様』

カミナの瞳を覗き込んだニアは、何処か悲しげな表情になるとそうぽつりと呟き、シモンの方を向く。

「どうやら…今まで知らなかった事実が、今初めて明かされたみたいだよ。カミナは… うん。兄貴は、ニアと一緒の存在だったんだ」

シモンは口唇を噛み締めると、呆然と2人を見詰めているカミナを両腕でしっかりと掻き抱き、指で空色の鮮やかな髪を梳るようにして頭を何度も撫でる。
今思えば、カミナの瞳の色も、髪の色も自分達とは違っていた。
地下で生活していた頃は、閉ざされた薄暗い世界だったから気付かなかったけれど、地上に出て一番最初に気付いたのは、カミナの髪の色の空のような鮮やかな青さと、炎のように紅く染まった瞳の色で。
その、まるで空の青さを水面に映したかの様な明るい空色と、反比例するかの様に燃え盛る炎の赤を映した深紅の瞳のその鮮やかなコントラストに、シモンは驚きを覚えた事を思い出す。
自分の髪の色と瞳の色もカミナと同じなのかと思い、リーロンに鏡を見せてもらって自分はカミナのように綺麗な色をしていないことを知り、子供ながら少しがっかりした記憶があったのだ。

「シモン…さ…ん?」

唐突に抱き締められ、カミナは驚いたように声を上げ助けを求めるように今度はニアの方を向くが、ニアはというと、眼にいっぱいの涙を浮かべ、何度も何度もカミナを見詰めたまま頷き続けていた。
時空を越えて、そして次元を超えて初めて知った事実。
何度も、何度も、カミナには出逢っていたのに今の今まで知らなかった真実。



カミナとニアは---------。



『あの頃の私は知りませんでした。私以外にも姫がいたことを。そして、生れ落ちてすぐ廃棄されてしまっていた小さなカミナの兄貴さんのような嬰児がいたと言うことも…。私は、生き続けることが出来なかった兄弟姉妹たちの犠牲の上に生きていたのだと。だから、この小さなカミナの兄貴さんが生きて此処にいて、私とこうして出会えたのは、奇跡なのかもしれません』

シモンの震える肩に抱き締められていたカミナは、ニアの言葉を必死に理解しようとして、幼いながらひとつの答えに辿り着き、ぎゅっと眼を閉じて小さな両手をシモンの背中に回す。
シモンが抱いていた悲しみと、ニアが抱いている困惑を感じ取ってかなのか、カミナはまるで自分が一番年上であるかのような仕草でそのシモンの背をぽふぽふと宥めるように優しく叩き、閉じていた瞳を薄っすらと開くと、にっこりと笑顔を向けた。


「でも、おれは生きてるよ? 父さんにひろわれて生きてたからシモンさんとニアさんにあえた。それでいいんじゃないのかな。よくわかんないけど…」


そんな自分の腕の中で確固たる意思を持って言葉を紡ぐまだ幼いカミナを見て、シモンは確信していた。
何処にいても、どの次元でも。
どんな姿をしていても、魂は少しも変わらない。
カミナはカミナなのだと。



そしてニアは、そんな2人を無言のまま透き通った両のかいなで抱き締めたのだった。

キャプテン・シモンとチビカミナシリーズ -悪夢を見る夢を視る-

翌朝、地平線から太陽が昇りだした頃、ダイグレンは上空で繋留する為に打っていた亜空間アンカーを引き上げ、地上へと再び降りてくる。
獣人の襲撃を避ける為なら、本来は夜間行動すべきなのだが、夜間活動する獣人もいることを過去の経験から学んでいたので、矢張り視野の明るい太陽が昇ってからのほうが安全だということで早朝にこうして降下してきたのだ。

「そろそろ、お別れだ。気をつけて…な」

地上にアンカーを下ろし、艦底の小型ハッチを開き、シモンとヨーコ、そしてリーロンの3人が少年を見送ることにした。副官はブリッジから離れられないし、キタンは機関部のメンテナンスを担当しているので一度だけ少年の顔をみただけで、それ以降姿を見せてはいなかった。

「ここから1キロも満たないところに地下への入り口があると思うわ。あなたなら、どう戻ればいいか、わかるでしょう?」

小さな機械端末を手に、リーロンが指差した方向を見て、少年は大きく頷く。

「ありがとうございました。ほんとうなら、おれいをしないといけないんだけど、おれには何もないから…」

ハッチの上部から赤い砂礫の大地を眺めていた少年は、リーロンの言葉に振り返り、3人に向けてぺこりと頭を下げ昨日助けてもらったお礼を再びする。
着ていた服も綺麗に洗われ、破れたところも元通りとまでは行かないがちゃんと縫い合わせてあった。

「気をつけてね、また…もし会うことがあったとしても、君は覚えていないでしょうけど」

「子供が遠慮するもんじゃないわよ。ほんとに…」

ヨーコとリーロンは次々と少年へ声を掛けるが、シモンは無言のままじっと少年を見詰めていた。
そんなシモンに対して、少年は少しだけ小首を傾げ微笑む。
怖い思いをしたが、助けてくれたのはシモンだったし、シモンがいなくては自分は今こうして再び大地を踏むこともなかったのだ。だから、言葉に言い尽くせないほどの感謝をしていた。

とことこと、少年はシモンの前までやってくると、小さなもみじの様な手で両脇に下ろされたシモンの白い手袋をした手に触れ、そして人差し指をぎゅっと握り締める。
そんなさり気無い少年の仕草が、彼らはとても愛おしく感じた。
矢張り、次元は違っても、年が違っても、カミナはカミナなのだと実感した瞬間でもあったのだ。

「みなさんも、きをつけて」

そっと少年は握り締めていたシモンの人差し指から手を離すと、再び3人を見渡しそう言ってもう一度頭を下げ、ふいっと踵を返しタラップを駆け降りて行く。

「…ぁ」

ぎゅっと人差し指を握ってきたそんな少年に、シモンは名残惜しげに手を伸ばしかけ、苦悶の表情を浮かべてゆっくりと下ろす。
名残惜しいのではなく、未練なのだ。
幼く、小さな少年をどうにかして自分の元へ、傍へ置いておきたいという、だだただ身勝手で独り善がりで傲慢な独占欲で。その欲望は、執着は一種狂気にも似たほどに狂おしいもので、それを押しとどめる為に、シモンは必死に堪えていた。

それは、当然かもしれない。

一度手に入れてしまったものを再び手放すというのは、非常に困難なのだ。
それが、二度と手に入らないものなのだと判っていればこそ、その想いは激しいものになる。
しかし、ヨーコが言うように、その想いは赦されないものだのだと、シモン自身十二分に判っていた。
判っていたからこそ、必死に耐えていたのだ。

「…さよなら、兄貴」
両脇に下ろした手が自然とぎゅっと拳を作り、駆けて行く少年の背を見送る。

そんなシモンを慰めるように、リーロンが軽くポンと肩を叩き、ヨーコはシモンを見詰めこくりと頷く。
二度と少年に会うことはないだろうが、それは仕方のないことだった。
それが自分達に課せられた、運命なのだから。

「みなさん、さような……ッ」

その時だった。
タラップから駆け下り、大地に足を踏み下ろして再び振り返り手を振ろうとした瞬間、何処かからか真っ直ぐに少年を目掛けてボウガンの矢が射られた。

「…なッ あにきいぃいぃぃーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」

その場にくたり…と、力なく頽れた少年を目前にしてシモンは絶叫し、ヨーコは両手を口に持って行き言葉にならない悲鳴を漏らしてガクガクと震え出す。

「副官ッ! 何してるのッ! 半径50メートル付近へレーザー掃射砲一斉掃射ッ!」

そんななか、独りリーロンは冷静に腕を振り上げ、インカムでブリッジにいる副官に対して命令を下すと同時に、甲板にあるレーザー掃射砲がダイグレンが繋留する周囲に向けて一斉砲火を開始した。

「あに…ッ  兄貴…ッ っ カミナぁーーーッ!」

目の前で起きた出来事に呆然となり、シモンは身体が硬直して動けないでいたが、

「何してるのッ! 早くカミナをここまで連れてきなさいッ!」

と、冷静に判断していたと思われたが、震える指で小型送信機を操作していたリーロンが、シモンへそう言イながら同時にインカムで医療班を至急、艦底ハッチへ来る様にと手配している姿に正気に戻り、よろよろと蹌踉めきながらもタラップを駆け下り、シモンは少年の元へと向かった。





「兄貴…アニキ…アニキ…あに…き…ッ」

くたりと地面に頽れている少年に足を絡ませながら辿り着くと、シモンは必死の形相で抱き起こす。
射られた矢は、少年の胸にしっかりと刺さっており、既にそれが致命傷であることを示しているかの様に、抱き起こすと同時に、小さな口からぷくりと血泡が零れ顎を伝い落ちてゆく。

「シ… モン… さ…」

閉じられていた眼がゆるゆると開き、小さな手でシモンの頬を濡らす涙をツッ…と拭う。

「ダメだ 喋っちゃ…ッ」

シモンは口唇をギリリと噛み締め、こんな状態になってもこの小さなカミナは自分の身体ではなく他人を思い遣っていることに腹が立ってきた。考えてみれば、この少年がどれだけそういった状況下で育っていたかが良く判ることだったのだが、今のシモンにはそんなことはどうでもよかった。

「ないたら…ダメだ よ シモンさんは… 男だ ろ… こんなこと で ないた ら…」

そう、途切れ途切れに言葉を紡ぎつつ、力のない小さな手が、何度も何度もシモンの頬に伝う涙を拭い続けていたが、身体が硬直した様に震えたかと思うと、空色の長い前髪から見え隠れしている赫い大きな瞳が見開かれ、そして頬に触れていた手が唐突に地面へと落ち、一瞬だけシモンへ柔らかく微笑みかけそのままゆっくりと瞳が閉じられたのだった。

「……ッ」

シモンの喉から、押し殺した悲鳴が漏れる。
身体は瘧が起きたかの様に震え、少年を抱きしめていた腕に力が入る。
そして、レーザー掃射砲で辺り一面を焦土と化させただけでは気がすまなくなったのか、少年を抱いたままゆっくりと立ち上がるとマントを翻させタラップを一歩一歩踏みしめるように上って行き、ハッチの入り口までやってくると振り返り、そのまま手を振り翳して

「人間以外の生命反応があれば…全て焼き払えッ! この辺りの…人間への不安要素となりうる全てのものを抹殺しろッ!」

と、静かでありながらも激しい感情を剥き出しにした指令を全艦へ下した。


「急げッ! 時間がないッ!」

「手術室と蘇生装置の準備は出来ているッ!」

「艦長っ! この子を連れて行きますよッ!」

リーロンが連絡を行っていたため、ハッチから格納庫に戻ればすぐに医療班が準備しており、シモンの腕の中の少年を半ば奪い取るようにして医療班はストレッチャーリフトへ横たわらせると、そのまま簡易手術室へと忙しなくストレッチャーリフトを起動させ走り去って行く。
そしてそれをシモンはただ呆然と見送るしか、すべは残されてはおらず、そのままそこへがっくりと膝を突く。

「…よく…我慢したわね、矢を抜いていたら危なかったわ…」

その場に跪き、俯いたまま微動だにしないシモンの肩にそっと手を置き、リーロンは優しくその肩を叩く。そして矢張り座り込み、ただ滂沱する涙を拭うことも出来ないでいるヨーコに向かい、

「大丈夫よ。助かるわ。いいえ、助けなくちゃ…ね」

と、まるで自分にも言い聞かせているかの様な口調で、慰めたのだった。










「じゃあ、ここの兄貴は、今の時点で死ぬ運命にあったということなの…か…」

蘇生室に入り24時間体制で医師の監視下に置かれた少年をガラス一枚越しから眺めつつ、シモンはリーロンがコンピューターから打ち出した理論を噛み砕いて聞かされつつそう呟く。

「ええ。シモンが昨日あの子を助けたでしょ。でもね、本当はあの時点であの子の命運は尽きていたの。でもあなたが助けたから生き伸びられたんだけど、それは一時だけのもので、矢張り定められた不文律の環にあの子もいたということなの」

リーロンはそう言いつつ、今まで出逢ってきたカミナのデータをモニターへと映し出す。
しかし、どのカミナのデータも、途中から空白になっていた。
そしてそれらは全て、17歳よりも若いデータで、それ以上の年齢のデータはひとつも残っていなかった。

「私達が出会ったあの子の中で、一番短命だったって事になるのかしら。可愛そうに…まだまだたくさんの可能性があったかもしれないのに」

モニターを通して何処を見るでもない表情で、リーロンはぽつりと呟く。

「辛い…わね」

気がつけばいつの間にか、時が止まってしまったカミナの年齢を越え、大人になってしまったシモンとヨーコは、それでも永遠にカミナの背を追い続けていた。
既にカミナの伝説は風化し、自分達の方が宇宙の伝説のになっているというのにも関わらず。
ガラス越しに眠る少年も、そんな自分達の知るカミナと同じ様に、そして自分達の様に伝説の人物になったかもしれないというのに。

ガラスの向こうでは、ヨーコが医師たちに言われたように白装束に身を包み、消毒して布に包まれたものを持ってごそごそと動いていた。

「いつ目覚めても、寂しくないようにだって。ヨーコらしいわよね」

紙の様に青褪め真っ白な肌の眠ったままの少年の傍に、ヨーコは布に巻かれたものを取り出す。
それは、シモンの片腕に巻かれていたカミナの遺品のマントの切れ端と、矢張りカミナの遺品の長倭刀で、マントの切れ端は枕元へ長倭刀は壁へと立て掛けたのだ。
そんなヨーコを見て、シモンは苦しそうな表情をする。
自分には出来ないことを、ヨーコはさらりとこなしてしまうからだった。

「…そんな眼で見ない。シモンにはヨーコに出来ないことが出来るんだから。あなたはそれをすればいいの。それがあなたの仕事よ」

そう言うってリーロンは薄く微笑み、コンピュータの電源を切る。

「じゃ、私は寝るわね。夜更かしは美容に大敵ですもの」

リーロンはガラスをノックしてヨーコに外へ戻って来るように促し、

「あなたも、ちゃんと寝なさいね。艦長としての責務があることをゆめゆめ忘れないように」

そう続けると軽くシモンへウインクして部屋から出て行く。

蘇生手術は成功したのだが、少しほんの少しだけ手当てが遅れてしまった
せいで、少年の意識は戻らなかった。このまま眠ったまま一生を過ごしてしまうかもしれない。
それは誰のせいでもなく、運が悪かったとしか言いようがなかったのだが、シモンはそれを自分のせいなのだと、自らを責め立てている姿に居た堪れなくなり、ヨーコは

「ちょっとお寝坊さんなだけよ。もう少ししたらきっと起きるわ。だからそのときまでシモン、傍にいてあげて。私じゃダメなのよ。こればっかりは。ね?」

そう促し、自分の着ていた白衣をシモンに手渡し中へ強引に押し込めたのだった。



ベッドの横に椅子を置きシモンはそこへ座り、少年を見詰めその色のない青冷めた頬にそっと手を添える。
生死の境を彷徨いながらそのちいさな身体で、よく大手術を耐え切ってくれたと、シモンは感動していた。
とは言うものの、まだ蘇生措置の真っ最中なせいか、その頬は冷たく、その冷たさは生きているものには感じられないほどで、思わず手を引っ込めてしまう。
しかし、ちゃんと呼吸をしているのを確認すると、ホッと溜息を吐いて再びその冷たい頬へと手を添え優しく撫で続けた。人の体温を感じ、目覚めるかもしれないとシモンは思ったからだった。


あの時、大手術を耐え切ることは出来たのだが失血のショックが大きかったらしく、術後数日経っても少年は目を覚まさず、あれから数日が過ぎてしまっていたのだった。


「兄貴… もうオレは二度と兄貴を手放すものか。兄貴はオレのものだ…オレがずっと護り続けるんだ…」


シモンは仄昏い笑みを浮かべつつ、自分達が助け、この艦に搭乗することによって定められた運命という円環から外れる事が出来た目の前の少年に向けて、そう呟くとそっと少年の小さなもみじのような手を取り、その甲に口接けるのだった。

キャプテン・シモンとチビカミナシリーズ -永遠の刹那-

小さな渓谷に捨てられたトランクの蓋が投げられた衝撃で開き、同時に赤ん坊の泣き声がその渓谷に響く。

「…赤ん坊の泣き声がするな…何処からだ?」

村渡りに疲れ、そろそろ何処かの村に定住させて貰おうと考えていた男が1人、ちょうどその渓谷に差し掛かった所で赤ん坊の泣き声を耳にし、その声を頼りに進んでいたところ、幾つもの廃棄された大型のトランクが無残にも晒された場所に辿り着いたのだった。

「何処だ… 赤ん坊は…」

声がする方へと進み歩いて行くと、そこには鍵が壊れ蓋の開いたトランクがあり、その中で元気よく泣いている赤ん坊がいたのだ。

「可愛そうに…」

怖々と壊れ物を取り上げるように男はそのトランクの中の赤ん坊を抱き上げる。
まだこんなにも小さい赤ん坊だというのにも関わらず、上半身を染める藍のトライバルに表情を曇らせ、男は自分が纏っていたマントを裂いてその赤ん坊を包み、ザックから取り出した柔らかめな布に腰に下げた水筒の水を浸し、赤ん坊の口元を濡らす。
本当ならミルクがいいのだが、当然持っているはずもなく、更に如何せん自分は男であった為、そうするしかなかった。

「…ふぇっ」

抱き上げられ人の温もりに安心したのか、甲高い悲鳴に近かった赤ん坊の泣き声に変化が現れ、男は僅かに安心し周囲を見渡して他に蓋が開いているトランクがないか確認をするが、開いていたのはこの赤ん坊の入っていたトランクのみだったため、目を閉じ口の中で何かを静かに唱え、その赤ん坊を連れてその渓谷から去って行くのだっだ。




「…シモンさん。おれのなまえも“カミナ”だよ」

シモンの告白に、少年は呆然とした表情で手に取ろうとした植物の実を転がり落とす。
ころころと落とした植物の実が転がり、シモンの座っているデスクの側まで来ると、シモンはそっと立ち上がりその転がった実を拾って少年の座るソファのところへとやってくる。

「うん。知ってるよ、カミナ。会いたかった」

そうシモンは床に膝を突き、少年を見上げるような体勢に座ると、手に持っていた植物の実を少年へと私、そしてその手をそのまま遠慮気味に少年の頬へと移動させそっと触れる。

「カミナは知らないけど、オレはカミナのことを知ってるんだよ…ずっと…前から…」

僅かに眉間に皺を寄せ、今にも泣き出しそうな表情になったシモンの姿に少年は一瞬困惑した表情を見せたが、頬に触れて来るシモンの掌の震えに何かを感じ取り、小さなもみじのような手をそっとそのシモンの手の甲へ添え、そして僅かに小首を傾げてシモンを見詰める。

「おれのことをしってるんだ…シモンさんは。なんか…うれしいな。父さん以外で…おれのこと知ってるひとがいるなんて…」

白い手袋越しからでもシモンの手の温もりを感じ、少年はそう呟く様に言うと、見詰めていた視線をそっとはずし目を閉じる。こんなにも小さい子供が、既に孤独を感じていたのだ。
シモンはそんな少年をじっと見詰め、開いているもう片方の手で澄んだ空色をした柔らかな髪を指に絡ませる様にしつつ頭を撫で、自分の知っているカミナを思い出していた。
自分が物心つく頃はまだ、カミナはいつも独りで村の隅の廃材置き場に佇んでいた。
他の子たちはみな固まって遊んでいたのに、カミナだけはその輪に入ろうとはしなかったのだ。
その理由は判らなかったが、ただ同じくらいの年齢になった頃、カミナが自分達とは違う何かを放っていることに気づいたのだ。それが、カミナを孤独へと走らせていたに違いないと、シモンは考えていた。

「全て知っているわけじゃないけどね。でも、多分この世の中でカミナのことを一番知っているのはオレだよ…そう、自負してる」

そうシモンが少年に向かって言うと、緊張が解けたかの様な柔らかな笑みを少年は浮かべ、シモンへと向けた。




「この子が、私達の知ってるカミナに育つのかな」

黒い大きな生き物に追われ疲れていたのか、少年は暫くすると座ったままうつらうつらと舟を漕ぎ出し、それに気づいたシモンは少年の横へとそっと座って、自分の膝を枕にして寝るといいと進める。
しかし始めは遠慮していた少年だったが、流石に睡魔には勝てなかったのか、ふらふらと揺れ動く睡魔に負けてしまい、ぱたりと崩れるようにシモンの膝へと突っ伏すように電池が切れる様に寝てしまった。
そんなところへ、ヨーコがバーボンのボトルとグラス、そして少年用に甘いジュースの入ったグラスを持って戻ってきた。

「…どうかな。こうやってオレ達が自分達のいた本来の次元以外にきてしまった以上、新しい次元は生まれ続けていくんだから…多分、この兄貴もオレ達の知ってる兄貴にはならないと思うよ…」

すぅすぅと小さな寝息を立てている少年の髪を優しく指で梳りながら、シモンは薄っすらと微笑みを浮かべてヨーコへそう言う。

「…そっか。そうだよね…。時空を彷徨っていて判ったことは…自分達の本来いた次元に戻らない限り、その自分達の接点から次々と新しい世界が生まれてくって事だもんね…これもリーロンが調べてて判ったことだけど…」


そうヨーコは言うとグラスを手に取り、そのグラスをシモンへと渡す。
世の理の法則に逆らって次元大瀑布を超えた代償が、次元を彷徨う流離の旅人の集団と化したことだった。
それは、全ての時間から切り離された時の止まった存在でになってしまったということだった。
そして行く先々でシモン達は、次元の違う世界の過去の自分達や、未来の自分達の姿を見る事になり、改めてどの次元でも“カミナ”と言う存在は、自分達の知っているカミナと同じく、年若くして死んでゆくのだった。

「…でも助けられてよかった。今までは誰一人として助けられなかったから」

シモンはぽつりと呟くと、渡されたバーボンを一口、口唇を濡らす程度に口を付けた。
自己満足でも良かった。
これからこの少年の運命がどうなって行くかは計り知れないが、それでも僅かでも生き延びられるのなら、少しでも手助けがしたかった。




喩え、どの次元のカミナの運命の行き着く先が同じだったとしても。





「…そう ね。僅かでも生きていられる時間が延びるなら…」

今まで、もう少し大きくなってからのカミナや、自分達の知っている世代のカミナ、さらには死地に旅立つ寸前のカミナとばかり出会っており、ここにきて初めて幼少時代のカミナにで増えたのだ。
勿論、他次元の出来事に干渉をすることは、新たな次元の誕生を意味する。
しかし、今回ばかりはどうしようもなかった。
飛び出したシモンを誰も止められなかったからだ。
そして、止められる筈もなかった。

カランと、バーボンの入ったグラスの氷が解けて、音が鳴る。
そんなささやかな音に反応してか、一瞬少年の身体がビクンと痙攣を起こした様に振るえ、慌ててシモンは少年を覗き込む。

「お…起きちゃった…かな?」

じーっと覗き込んだ後、顔をあげてお伺いを立てるような情けない表情でヨーコの方を見詰めてくる姿を見て、

「大丈夫よ。深く眠ってるだけだから。心配しなくてもいいわ」

戦場を駈る時のシモンとは正反対の、以前の子供の頃の様に臆病な少年に戻ってしまっている姿を見て、ヨーコはくすっと笑った。
こうして、カミナと一緒にいられる時間もあと僅かだった。
同じ次元に、長時間存在し続けると、さらに時空の歪みを生み出してしまうため、長時間同じ場所に滞在することが出来ないのだ。
残念だが、この幼いカミナが大きくなり自分達と出逢うときまで見守りつづけることは出来ない。
しかし、この刹那の邂逅が彼等の心を魂を救っていた。




「で、どうする? あまり長い間…カミナが私達と一緒にいるのはいいことじゃないわ」

そう言ったヨーコの顔は、その言葉とは裏腹に苦々しく歪んだもので、それを本心から言っているわけではないことが十分に見て取れた。

「判ってる。夜が明けたら、地上に戻すよ。兄貴には、兄貴の人生がこれから待っているから…ね、それをオレ達が台無しにしちゃいけない…」

愛しいものに触れる様に、そして壊れ物に触れる様に、シモンは優しく少年の髪に絡ませた指を引き抜き、そしてゆっくりと頭を撫でる。そんなシモンの仕草にヨーコは僅かに目を細め優しく微笑み、2人の前へと歩み寄るとその場へ膝を突き、すやすやと眠る少年の寝顔を覗き込んで

「うん。ニアも心配してたわ。シモンのこと」

少年の目鼻立ちをじっと見詰め、一瞬だけ自分の知っているカミナを投影しているかのような、何処か遠い表情をした後、そうシモンへと言葉を続けた。その言葉の意味は、シモンの先ほどの突発的な暴走に関しての危惧を現しているものだった。

「ニアに心配かけちまうになんて…ダメだな、オレも」

シモンはそう呟きながら、少年の髪を撫で続ける。
それはまるで失われて行く時間を惜しんでいるかの様な、焦燥感に満ちたもので、そんなシモンの姿を見てヨーコは胸が締め付けられる様な痛みを感じていた。

自分達は、あとどのくらいカミナの「死」を見届けなければならないのだろうか。
そして、あとどのくらいカミナを救えない事に耐え続けなければならないのだろうか。

どの次元でも、失われ続けるカミナの生命。
それに知った時、気が狂いそうなほど血反吐を吐いて泣き叫び、身食いの獣の様な行為で自らの身体を疵付け続けたシモンの悲痛な声を、ヨーコは忘れられなかった。
もう二度と、あんな胸を締め付けられる様な悲しい泣き声は聞きたくないと思ったのに、また次の次元で同じ思いをさせられる。
そして漸く現実に慣れ始めた頃、この幼いカミナに出逢ったのだ。

「けど…ヨーコ。この兄貴は…このまま地上へ戻ったとして…ジーハ村に戻ったとして…このまま生きてけるのかな… だってこんな小さな手で…オレの知ってる兄貴みたいに問答無用の強さを持ってなさそう…ッ」

と、はっと顔を上げ、シモンは何かを思いついたかの様にそう言い出す。
その瞳は、以前みた事のあるカミナを失ったときに見せた、妄執に取り付かれた様な何処か色の違った瞳で、ヨーコはこれをニアは危惧していたから自分を此処へ寄越したのだと気づいた。

「シモン、ダメよ…そんな事考えちゃ…それは絶対に許されない事なんだから」

ヨーコはそう言って俯いたまま少年の頭を撫で続けるシモンの両肩に手を添え、諭す。

シモンは知らない。

カミナは強くなどなかったという事を。
シモンがいたから、カミナは強くいられただけなのだ。
どれだけカミナがシモンの強さにに憧れていたか、どれだけシモンという存在に救われていたか。
丸い月の静かな夜、カミナがぽつりと呟いた本心からの弱音をヨーコはシモンの言葉を聞き思い出した。
いつでも思った事を全て言葉にするカミナが、あんな想いを胸に秘め続けていた事は、多分、自分しか知らないだろう。勿論それを誰かに言うなどという事をする気もない。

「…うん。判ってる…判ってるさ…けどね…」

反対にシモンは、いつも強いカミナの背ばかり追い続けていたせいか、自分にとってカミナは最期までその背を越えられないまま手のとどかない人になっていたのだ。
そのせいか、シモンの中ではカミナはいつでも最上級の位置にいた。
だからこそ、この膝の上で健やかな眠りに落ちている少年の頼りなさが自分の知っているカミナとはあまりにもかけ離れており、庇護欲を生み出してしまったのだ。

このカミナを護れるのは自分だけなのだという、半ば妄執にも似た感情をシモンは抱いてしまったのだった。



シモンの眼が、この少年を通して何処か遠くを見詰め、そしてそれが闇色に染まり出していることに気づき、ヨーコの背筋が粟立つ。シモンは聡いから、一の言葉で十を知ってくれるのだが、カミナに関しては、それが違うベクトルに向いてしまう傾向があり、それをニアやリーロンは指摘し危惧していたのだが、今まさにその状態に陥っていた。

「…バカッ!」


そう大声で怒鳴るのと同時にヨーコは、震える手で執着する様に少年の頭を撫で続けているシモンの頬を平手打ちした。

「ヨーコ…」

ハッと顔を上げ、シモンは平手打ちして来たヨーコの顔を見詰める。

「このカミナには、このカミナの人生があるの。それを私達の身勝手な思いで変えたりしちゃいけないって事ぐらいわかってるでしょうッ! 私だって…ほんとは… ほんとは…ッ でも、本来此処に存在してはいない私達が干渉したら…これからの此処の世界の歴史が変わっちゃうのよッ! こうしてカミナを救った事ですら、もう随分と歴史を変えちゃったっていうのに…」

ヨーコは口唇を噛み締め、両手をそのまま下ろし握り締めた拳を震わせながら眦に涙を浮かべる。
感情が昂ぶり、ヨーコは肩を震わせていた。
あれから何年の時が過ぎたのだろう。
気がつけば、カミナの年齢をとうに過ぎてしまい、永遠に時が止まった彼を置き去りにして自分達は大人になった。

「ぅ…ん…」

呆然とシモンはヨーコを見詰めていたが、周囲の五月蝿さにシモンの膝枕で眠っていた少年がもそりと眠たい眼を擦りながら起き上がり、とろんとした眼で二人を交互に見渡すと、二人の間に流れる空気にビクッと身体を震わせ、ヨーコに平手打ちをされ赤くなってシモンの頬にそっと手を添えて

「どうした…の? 何怒ってるの?」

と、二人へ問いかける。
しかしシモンは無言のままで答えてはくれず、困惑した表情で少年は涙を浮かべているヨーコへと視線を移す。詳しいことは判らなかったが、女の人を泣かす男の人はよくないと考えていた少年は、もう一度シモンを見詰め

「ヨーコさん、ないてるよ? どうしたの?」

と、言葉を続ける。
長めの空色の前髪から見え隠れする大きく透明な独特の色合いを持った赫い眼が瞬き、その色彩が矢張りこの少年はカミナなのだと再認識させられ、思わずヨーコは少年の身体をそっと抱きしめ

「ごめんね、起こしちゃって。なんでもないの」

そう言うと再び自らの腕からそっと離し、両肩に手を添えて微笑むと立ち上がってそこから去ろうと歩み始める。

「シモン、私達は間違えちゃいけないって事だけは忘れちゃダメなの…」

そしてそう言い残し、部屋から去っていった。



「…シモン…さん? 何があった…の?」

ヨーコの言葉とシモンの態度がどうにも気になって仕方がなかった少年は、隣に座っているシモンへ問いかけてみる。
が、しかし返事がない。

「…シモン…さん?  …ッ」

返事がない事に不安になった少年はフッと俯いたままのシモンを覗き込み、そして小さな悲鳴とともに息を飲んで後ろへと後退った。

「ご…ごめんなさ… もうきかないから…」

カタカタと震え、少年はソファの肘掛にしがみ付く。
そのときのシモンの表情は、少年にとって言葉に絶しがたいもので、ただ怖かった。
シモンが抱く心の中の闇の深淵を垣間見てしまった少年は、この場から逃げ出したい衝動に駈られたのだ。
見てはならないものを見てしまったという、罪悪感と恐怖が少年を襲う。

「…ッ」

そんな少年の怯えた声に漸く気づきシモンは慌てて、怯えて及び腰になっている少年に対して顔を上げ引き攣ったなりに笑顔を見せる。自分の顔が、幼い子供を怯えさせるたけのものになっている事実に青ざめてしまったのだ。

「ご…ごめん。怯えさせるつもりはなかったんだ。ちょっと…考えちゃいけないことを考えて…ヨーコにしかられただけだから兄貴は関係ないし、心配しなくてもいいから…」

口元を引き攣らせ、シモンは少年へ手を伸ばす。
一瞬、手を伸ばされた少年は怯えたようにビクンと震えたが、先ほどと比べシモンから醸し出されていた雰囲気が一蹴されていたのでホッと溜息を吐いて、少年はシモンにされるがまま再びくしゃりと頭を撫でられた。

キャプテン・シモンとチビカミナシリーズ -二律背反-

ハッハッハッハ…ッと、息を切らせて走り続け、少年は恐怖に怯え何処か隠れる場所を求め、涙を浮かべて震える瞳が彷徨う。

「殺される…ッ 逃げなきゃ…ッ」

じわじわと迫り来る気配が自分を確実に追い詰めて来ている。
空を真っ赤に染めるおおきな光が沈む前に地下へ戻ろうと思い、元来た道をとぼとぼと1人歩いて戻っていた所で、少年は見たこともない大きな黒い生き物に出会ってしまい、その大きな黒い生き物が目をギラつかせ飛び掛ってきたのだ。
悲鳴を上げて寸での所で逃れたが、僅かに掠ったのか着ていたポンチョはその生き物の爪で裂かれてしまい、腕にその生き物の爪が掠った痕が蚯蚓腫れとなって残っている。

「死にたくない…ッ 死にたくないッ」

両腕を振り回し必死の形相で走っていたが、気づけば地下へ戻るはずの方向とは反対へと誘導されていた。
まだ幼い子供の足では、そんなに早く走る事は出来ず、黒い生き物の気配を感じては向きを変えるといった状態を繰り返しているうちに、少年の疲労はピークに達し始めていた。
一方、大きな黒い生き物は、そんな少年を玩ぶかの様に時々姿を現したり、気配を表へ出したりと、じわじわと精神的にも肉体的にも追い詰めていく方法を取っていた。

「ヤだッ ヤだ…ッ」

ぜぃぜぃと次第に息が荒くなり、思考は真っ白になっており、ただ“死にたくない”という意識だけに支配されていた。
所々に僅かに枯れた草が立ち枯れたあるだけの、真っ赤な砂礫の大地が、今の少年には「死の大地」にしか感じなかった。

ガサササ…ッ

その立ち枯れた草の狭間から、黒い大きな生き物が顔を出し、少年の足が止まる。
ガクガクと足は震え凍りついた驚愕の表情が、その生き物に向けられると、その瞬間を待ちわびていたかの様に、少年を追っていた他の黒い生き物が飛び掛ったのだった。

「………ーーーーー…ッ!」

少年の身体の倍以上はある、黒い大きな生き物が複数で獲物を屠る様に飛び掛り、地面に押し倒す。

「…ッ! っっ!」

少年は悲鳴すら出せず喉を引き攣らせ、痙攣け起こしたような声を漏らし、今まさに自分へ振り下ろされようとしている黒い生き物の鈍く輝く鋭い爪に視線が釘付けになっていた。
と、その時だった。
突然、空と大地を染めていた赤かった視界が黒く大きなもので遮られたかと思うと、



「目を閉じてっ! 兄貴ッ!」




何処からか聞いたこともない声の叫びが聞こえ、少年は思わず理由も判らないままその声に従って目を瞑ったのだ。

その瞬間、耳を劈幾つもの轟音とともに圧し掛かっていた黒い生き物の気配が掻き消えたかと思うと、同時に身体に生暖かいものが掛かり、鉄錆臭い匂いが辺りに漂い出し、慌てて目を開けて起き上がる。

「見るな…ッ! 兄貴ッ!」

起き上がった少年の気配に気づき、声の主は再び叫ぶが、時既に遅く。

「……ァ」

視界に入ったのは、自分に圧し掛かっていた黒い生き物たちが何かの衝撃で吹き鯖されたのか、足元へと飛ばされ、頭部を撃ち抜かれて脳漿と血を撒き散らし、絶命していたのだ。
少年はそれを呆然とした表情で見詰め、そして自分に降りかかった生暖かいそれがその生き物の血だと言う事に気づき、両手で顔を覆い、悲鳴を上げそうになった。
その様子に気づいたのか、声の主は何か叫んだかと思うと、持っていた大きな竿の様な、それていて剣のようなものをその場に投げ捨てると、少年の傍へと駆け寄り背後から抱きしめ、そのまま抱え込み少年の視界から死体を遠ざけた。

「ごめん…ッ! 急いでたから…っ! こんな怖い思いさせるつもりはなかったんだっ!」

少年の頭を掻き抱くその大きな手は僅かに震えており、その震えに気づいた少年の方が小首を傾げ反対にその自分を抱きしめてくる大きな男の人の背に手を回しおずおずとその身体をぎゅっと抱きしめた。




「なに、またやっちゃったの? シモンったら…もう… いいかげん覚えなさいよ。その銃はレールガンじゃないんだから」

黒い獣の血を浴び汚れてしまった少年に『身の回りの世話をしてあげる』と言ってきた女性がダイグレンの艦内にあるシャワー室へ連れて行き、しっかりと血を流し終えてから艦長室へと連れて来ると、その女性はそこでごしごしと少年の髪の水気をタオルで拭き取りながら、シートに座りボーッと壁面のモニターを眺めているシモンへと文句を言う。
子供サイズの服がない為、大人のぶかぶかのシャツを羽織らされて、袖をロールアップした状態でその女性にされるまま髪を拭かれている少年は、時折困った顔をしつつ、モニターを見詰めたままのシモンと呼ばれた人が何を喋って来るか気になりじっと見詰める。

「…ああ。判ってるって。でも…つい…兄貴が殺されるかと思ったら…」

モニターを見詰めている横顔が、僅かに曇っているのに少年は気づき、髪の毛の雫をふき取ってくれている女性の顔をチラと見遣ると、何処か悲しそうな笑顔で微笑を返し

「君は…知らなくてもいいの…ううん、知らない方が…いいんだけど ね」

そう、少年に向かって言葉をかける。
その表情はとても複雑な色を湛えており、その表情を見てしまえば少年は二の句を告げず、シモンと女性を交互に見詰め、無言のまま俯いた。

「ごめんね。すごく気持ちが悪いわよね…」

程度にタオルドライを済ませ、少年の頭からタオルをそっと下ろすとボサボサになった前髪を軽く掻き上げると、女性はそう言ってポムっと軽くその頭を撫でる。
そんな女性の表情に似たものを少年は、何度も地下の村で見たことがあった。
それは、半分絶望にも似た物で。

「…ううん、いいよ。気にしてない。おとなのじじょうってものがあるのくらいはわかってるから。おねえさんを、こまらせる気はないよ」

と、少年の発した言葉は余りにも物分りのいい子供のような答えで、その言葉からはとても自分達の知っている人物からはとてもかけ離れていたものだった為にシモンと女性は、その少年の言葉にハッと顔を上げたのだった。


ソファにちょこんと座り、手持ち無沙汰を誤魔化す様に足をブラブラさせて、自分をチラチラ見てくるここの一番えらい人だと思われるシモンと呼ばれる男の人を胡乱気な表情でじーっと見る。
見られるのは嫌ではないけれど、どうせ見るならもっと堂々と見てくれればいいのにと、少年は思っていた。どうせ、もともと見られ慣れてはいたのだから。

「…こんな時間だし、おなか減ってるかな。小さい子向けの食べ物は今ちょっと切らしてて…でもこれくらいなら食べられるよね」

暫く姿を消していた女性がそう言って、手にトレイを持って再び部屋へと戻ってくる。
そのトレイの上には、見たこともない鮮やかといえば聞こえがいいが、ちょっと毒々しい色合いの模様の植物の実と、肉と思われる塊が乗っていた。

「…ありがとうございます。でも、それ…」

鮮やかな模様の植物の実を凝視して、少年は指差す。
少し、食欲が減退しそうな色合いな為、少年は少し怯んでいる様で、その様子に女性はクスッと微笑み、

「大丈夫よ、ちゃんと食べられるから。甘くておいしいわよ」

そう言って、少年の座っているソファの前のテーブルにトレイを置くと、その鮮やかな植物の実を手に取り、軽く爪で表皮に線を入れたかと思うと、パックリとその実を半分割って片方を少年へと手渡す。

「食べてごらん。見た目はちょっと…だけどね」

「…ありがとうございます」

手渡されれば食べないといけないと思い、少年はその実の半分を恐る恐る口へと持ってゆく。
瑞々しく水分の多いその実は、半分に割られた事で果汁が溢れ、少年は手が汚れてしまうので慌ててぱくりと口の中へと放り込む。

「…ッ!」

生まれて初めて食べるその食感と甘い果汁に、少年は驚いた表情で女性とシモンを交互に見渡す。そんな少年の表情に、女性はにこにこと微笑み、シモンは何処か眩しそうなそして懐かしそうな複雑な表情を向けてきていた。

「ね。おいしいでしょ? 遠慮せず食べてよね。まだまだあるから」

その視線に気づいたのか、女性の表情も一瞬だけ曇ったが、それ以上に少年がおいしそうに植物の実を頬張っている姿の方が嬉しかったのか、テーブルの上のトレイを指差して笑顔でそう言うと

「じゃ、私はまだ仕事が残ってるからあとはシモンよろしく」

少年に軽くウインクをして踵を返し、部屋から出て行こうとした。

「…ぁ おねえさん…ッ えと… あの… ありがとうございます。えと…おれ…おねえさんの名前…きいてなくて…おれいが…」

部屋から出て行こうとする女性に向けて、少年はパッと顔を上げたかと思うとそう声をかける。

“…こんな可愛くて素直な子が…どうしてあんな風に育っちゃったんだか…”

女性は、少年のその言葉を聞くと心の中で小さくそして懐かしさも込められた溜息とともにごちりつつも、

「あ、名乗ってなかったっけ。ごめんね。私の名前はヨーコ」

振り返るとそう名前を告げた。すると少年はぺこりと軽く頭を下げて

「生まれてはじめてこんなにあまい食べ物たべたよ、ヨーコさんありがとうございます」

緊張も解け始めているのか、そう女性…ヨーコに向かって言うと再び手にした植物の実をむぐむぐと食べ始め、そんな少年の様子に、自然とヨーコの胸中に何かが込み上げて来て、思わず目頭に熱いものが滲んできて、鼻を鳴らしてしまい、それを誤魔化す様にふいっと身を翻し部屋から出て行く。
が、何思いついたようにドアから顔をひょこり出して正面のデスクにいるシモンを指差し

「おかわりが欲しかったら、シモンに言って持ってこさせるといいわ。それくらいさせてもいいから、そいつに」

そう言って、去っていったのだった。



「……」

ヨーコが去り再び二人きりの部屋になると、その場に沈黙が訪れ、どうしていいのかわからなくなった少年は、今度は肉と思われる塊を手に取りむぐむぐと無言のまま黙々と食べ始めた。
村のブタモグラの肉を塩漬けして焼いたものよりずっとおいしい味つけで、少年は目を白黒させていた。
そんな姿をチラチラと見て、シモンは過去に想いを馳せていた。
言葉や口調、仕草のどれをとっても、自分の知っている兄貴ではないのだが、時折見せる表情が自分の記憶の中の兄貴と被り、何度もドキリと心拍数が上がっていた。

「…シモンさん…は、はじめて会ったのにおれのこと…“あにき”って呼んだけど…シモンさんのおにいさんとおれ、似てる…の?」

肉を食べながら色々考えていたのか、最後の一口を食べ終えると少年は意を決したかの様に、ゴクリと大きく喉が鳴るほどつばを飲み込んだのち、そうシモンへと問いかけたのだった。
その表情は、幼い表情ながらも、シモンが見慣れたカミナの顔だった。

“ああ…兄貴。やっぱり兄貴だ…”

その表情を見て、シモンは改めて実感していた。
幾ら小さくても、兄貴は兄貴なのだと。






初めて次元大瀑布を超え、時空と次元を超えて辿り着いた先にあったものは、あの初めての激しい戦いの最中、カミナの生命の灯火が消える瞬間だった。
天空より、グレンラガンがビャコウとエンキドゥに攻撃を受けている瞬間がダイグレンのモニターに映し出された瞬間、シモンはあのときの光景が甦ったのか一瞬恐慌状態に陥り、それをニアが必死になって受け止めた。ニアがいなければ、シモンはダイグレンから飛び出していたに違いない。
胸を突く嗚咽にクルー全員が当時を思い出し、重苦しい空気に包まれてしまった。

そして次に超えた時空も、またその次の時空でも…何度もカミナは、場所と相手は違えど志し半ばで、若い生命は絶たれてしまい、その度にシモンは何度もカミナを失う場面と向き合わなければならなかったのだ。
それはシモンにとって、いや、ダイグレンの初代クルーにとっては地獄の苦しみにも近かった。

同じ次元に同一人物がいるということは、そこに時空に歪みが生じ、その歪みで傷ついた次元はまた新たな平行世界を次々と生んで行くのだ。そして、どの平行世界も一度練り上げられた運命から逃れることが出来ず、カミナという名前の男は、若くして死ぬ運命にあった。


「ああ、オレの大切な兄貴にそっくりさ。カミナって言うんだ…」

シモンは、少年を通して何処か遠くを見詰めているような表情だったが、少年の問いにふと少年へと視線を戻し、デスクの上で腕を組んで肘を突いて手のひらに顎を乗せて、肉を食べ終え甘い植物の実に手を伸ばそうとしている少年に向かって、薄く微笑んでそう答えたのだった。

廃園に朽ちる天使像(カミキタ前提シモキタ)

凍えるような真っ白い上弦の月の夜に
珍しく深い眠りに落ちて
まるてフラッシュバックを起こすように、あの頃の夢を視た。

何度、手を伸ばしても救えない。
叫んでも、嘆いても、泥水の中でのたうちまわっても
もう二度と会えないあいつ。


辛い記憶は其処までで、咽喉の渇きに目が覚めた。
あの、空色にも似た癖っ毛が、深紅の意志の強い目が自分達の前から去り
もう、どれだけ経ったんだろうか。





ベッドのスプリングを軋ませて端に腰を掛けると、
「あ、もう起きたの?」
開け放たれたドアを見るとビール片手にシモンが立っていた。
「俺も…飲み…て…ぇ」
咽喉の渇きのせいなのか思ったより掠れた声が出る。
手渡されたビールはもう残り僅かしかなく、乾いた喉を潤すほどのものは得られなかった。
「…物足りなさそうな顔だね」
シモンの言葉を聞き流すようにして
「…昔の夢を見ちまった」
と、呟く。


「…」
呟かれた言葉にシモンは少しだけ眉間に皺をよせる
目の前の人物の表情から、どんな夢をみたか直ぐにわかったからだ。


「いい加減、卒業しなよ 俺はとっくの昔に克服できたのに。ヴィラルもね。あとはキタン、あんだだけだよ?」
「五月蝿ぇ! 判ってるくせにヌかすなッ!」
そう吐き捨てるように言うと握りつぶしたビール缶を投げつけた。
が、それをシモンは易々と片手で受け止めてしまう。

ニヤついた顔に嫌気が差してベッドに寝転がると、シモンが馬乗りになって重みをかけてくる。
其の顔には先ほどまでの薄ら笑いは消えていた。

「お前を…どうしたら此処に留まらせることができる?」
其の瞳は酷く真剣なまなざしで逸らせない。
明日になれば、またこの目の前の男は怠惰と憂鬱に満ちた表情で、象牙の塔の高みから、総てを諦めた表情で世界を眺めるのだろう。
「無理だね。 あの頃の俺は、もういないし…」

そう言って笑った顔は、仮面のようだった。


永劫の円環(シモカミ/鬱)

激しい爆音と共に、自分の身体がフワリと持ち上がった感覚にシモンは、一瞬何が起きたのか判断出来なかった。
確か、自分達は獣人達からの攻撃を避け渓谷を抜け、各地に散らばったグレン団が集合する為に作った隠れ里に向かう途中だったはず。
獣人達のテリトリーのど真ん中を突っ切る為に、陽の高いうちの行動は避けて、夕刻から移動しようと言う話しになって…そして…そして…。

「…っ!?」

シモンは記憶を手繰り寄せながら、朦朧とする意識を振り払う為に軽く頭を振り、今自分が置かれている立場を思い出した。
森を抜け、渓谷に入る為の谷に差し掛かった途端。
ふと、何気なく視線を赤い、真っ赤な血の色をした渓谷から崖の方へと視線を移した瞬間、キラリと輝く物に気付き、モニターを拡大しようとした瞬間…。

「…あ……兄…貴…っ!」

信じられない程に呆気なく鉄屑と化してしまった自分のラガンの側に、まるで自分とラガンを庇う様にしてのし掛かっていたグレンの存在に気付く。

「兄貴…?」

シモンは、何度かグレンに向かって呼びかけるが、しかしグレンからの返答は一向になかった。

「…?」

不思議に思ったシモンは、ラガンのモニターをグレンへと接続する。
そして、自分の視界に飛び込んできた画像を見て一瞬言葉を失ったが、ふと、自分の身体を見直した。

「…ああ…なんだ……」

腹部からは内臓が半分零れ掛かっており、更には右足があり得ない方向に捻れ裂けていたのだ。
そう言えばさっきから、何の音も聞こえなければ、確かに血が流れているはずなのに痛みもなかった。
その時点でおかしいと思わなくてはいけなかったのに。シモンは失念していた。

「…でも」

もうどうでもよかった。
今は、ぴくりとも動かないグレンのコクピットの中のカミナの傍に行きたかったのだ。
のろのろと身体を引き攣る様にして、シモンはラガンのコクピットから這いずって外へ出ると、グレンのコクピットのハッチを開き、カミナの側へと近付き、血に染まったカミナの身体を静かに抱き起こす。
触れてみれば、兄貴が既に事切れているのは明らかだった。
自分とラガンを庇ったせいだろう。
コクピットの破壊されている状態から、後頭部や背中も全て破壊されたグレンの期待の破片やグレンを直撃し破裂したロケットのせいで、カミナの背面は悲惨な状態だった。
常人なら目を背け、吐き気と戦わなくてはならない程の状態のカミナの姿だったが、抱き起こし、前を向かせると背面とは異なり綺麗なもので。

「血塗れの手で…触れても…いいよ…ね……だって……開きっぱなしの…眼じゃ……」

シモンは、ぐったりと身動きひとつしない腕の中のカミナに向かって話しかける。
爆風に吹き飛ばされたらしく、サングラスはその辺りには見当たらない。

「おれ…兄貴の赤い眼…好きだったんだけど…な…」

震える指でそっとカミナの瞼を閉じると優しく、壊れ物を抱き締めるかの様な仕草で、シモンはカミナの頭を掻き抱く。

「…くやしいな…もう…兄貴の…その綺麗な赤い眼……見れないの…か……」

彼の周囲にじわじわと血溜まりが生まれてゆく。その量は、決して少なくはない。
カミナが身を挺して守ったシモンも、もうあと僅かの時間しか残されていないようだった。
自分達はいったい、何のためにここにいたのだろう…。

「……。」

シモンはそっと呟いたあと、もう永遠に開くことが無くなったカミナの瞼にそっと口接ける。
周囲の喧噪も、色彩も全て失われつつあった。
冷たくなり出始めた手足が、自分の生命の火が静かに消えつつあるのだとシモンは感じ取っていた。

「…みんな……どうしてるか…な………」

そう言ってシモンは、大きく溜息を吐き、ゆっくりと目を閉じた。





















がばりと起きあがり、冷たい寝汗を酷くかいていることに気付き、手の甲で額の汗だけは拭う。

「…ゆ…め……か」

シモンは自らの震える両手を必死に押さえ、自分の身体を掻き抱く様にしてその震えを押しとどめようとしていた。

「夢でも… こんなのはイヤだ… 何で… どうして…こんな…っ」

唇を噛み締め、膝を抱える様にして言葉を殺す。
隣では、気持ちよさそうに寝ているカミナの姿があり、夢は飽くまでも夢でしかない事を示していたが、今のシモンには、その夢ですら恐怖であった。

「おれが… おれが…護るんだ… 兄貴を…みんなを… あんな結末を迎えない為にも…っ」

チラリと横目でカミナを見遣り、苦悶の表情を浮かべシモンは呟いた。

葬送(シモニア)

慣れない不器用な手付きで、一生懸命シモンの両手に巻いた包帯はよれよれになって解けかけていたが、そんなことはお構いなしに、シモンはニアの手を取って嬉しそうに微笑み、疲れた身体を癒すためぐっすりと眠っていた。
大きなベッドに小さな身体のシモンとニアは手をぎゅっと握り締めた格好で、すぅすぅと小さな寝息を立てている。

「お疲れさま、シモン。…ごめんね、優しい言葉をかけてあげられなくて。口だけの…優しい言葉なら…どれだけでもかけてあげられるけど…本当に必要な言葉は…私の口からじゃダメなんだ…」

ヨーコは二人の寝ている姿をそっと覗き見て、ぽつりと呟く。
本当は、ぼろぼろに心も身体も疵付いて、今にも頽れてしまいそうなシモンを抱きしめて支えてあげたかった。けれど、それではダメなのだとヨーコは判っていた。
それでは、互いの瑕を舐めあう行為でしかないのだから。
だから、敢えて「自分で立ち上がって立ち直ってもらわなければダメなの」と、ヨーコはシモンを突き放した。

「でも、もう大丈夫そう…ね。よかった…」

薄っすらと浮かぶ涙をそっと指で拭い、ヨーコはその場から立ち去る。
今度は自分の番なのだと。













一方シモンは夢を見ていた。

真っ青な雲ひとつない空の下。
地平線が見えないくらい広がる真っ赤な砂漠の真ん中に、ぽつんとカミナが背を向けて立っているのだ。

「兄貴ッ」

手を伸ばし駆け寄るが、カミナはシモンの声のする方を振り返ることはない。
シモンが背後にいることに気づいているだろうにも関わらず。

「兄貴ッ おれ…ッ」

シモンは、3歩程度離れた位置で歩みを止めると一瞬だけ俯き、そして顔を上げる。
相変わらず、カミナの背は広く大きい。
けれど、それは決して威圧的な壁のようなものではなく、暖かくそして優しく、護ってくれる人のそれと同じで、シモンはカミナの背が大好きだった。

『…なあ、シモン』

シモンがカミナを呼ぶが、カミナはシモンの呼びかけが聞こえていないように、シモンの名を呼ぶ。

『強くなったな。もう俺は“それでこそ、俺が見込んだシモンだ”って言わなくても良くなったぜ』

そしてそう言葉を続けると、人差し指でサングラスを鼻梁の上で軽く持ち上げ、真っ青な空を見上げる。

『…お前は、俺を買いかぶってるって言い続けてたけどな、俺の方こそ…お前が俺を買いかぶりすぎていたと思うぜ』

サングラスの先端に太陽の陽射しが反射して、輝きが一閃する。
その輝きに、シモンは思わず目を眇め、眩しそうにカミナを眺めた。


掛替えのない存在。
カミナがいたから、シモンはここまでやって来れたのだ。

「兄貴、おれ… 兄貴がいなかったら…」

眩しそうにカミナを見上げながらシモンが言葉を続けようとした途端、カミナは振り返って来た。
が、逆光のせいなのか、顔も表情もシモンにははっきりとは見えなかった。

『それ以上言うな。不用意な言葉は、自分を縛っちまうからな。滅多な事は言うもんじゃねえ』

と、優しく、それでいて暖かな、けれど抑揚のない口調でカミナはシモンを諭すように話しかける。
そしてトンっと人差し指でシモンの胸、心臓の上の辺りを軽く突付き、

『言葉は、魂が宿るって言うからな。もうシモンはそんなもので自分を縛り付けるような、ちっせえ漢じゃねえだろ? 俺を越えて…まっすぐ天へ、高みを目指して進んで行ける、すげえ度量の漢なんだから』

そう言うと再び踵を返し、高々と腕を上げ天を指差したのち、そのまま地平線の彼方へとその指先を移動させ

『なあシモン。お前はいつまでもこんな場所に留まってたらいけねぇんだ。前へ進んで行ける足があるんだからな。せっかくある足を使わねえと損だろ。俺は、此処からお前のこれから歩いて行く路を見守っていてやる』

「でも、道を間違えちゃうかもしれないよ、おれ。兄貴がいないと」

再びシモンはカミナの背を見詰め、カミナの言葉に不安を覚え思わずカミナのマントの裾を掴んだ。
怖い訳ではない。
今の言葉が、カミナとの永遠の決別を示唆しているようで、不安になったのだ。

『間違えりゃ、いったん立ち止まって考えなおしゃいい。シモンには、ヨーコやリーロン、ロシウがいるだろうが。そーいうときゃ、一人で背負わずにみんなで考えて動けばいいんだ』

シモンの心の不安に気づいてか気づかずか、カミナはそう言って、前を向いたまま振り返ることなくシモンの頭を軽く乱暴に撫でる。



『さあ、行けシモン。お前にゃ待ってるヤツがいるだろうが。そいつは俺じゃねえ。これからは、そいつの為に……』


ふと、掴んでいたカミナのマントが薄っすらと薄れ掛けていることに気づき、シモンは慌てて見上げると、そこにいたはずのカミナの姿がマント同様薄れ始めていたのだ。

『…もう、来るんじゃねえぞ。此処には』

「うん… ありがとう、兄貴」

カミナの言葉に大きく頷き、シモンは青く晴れ渡った雲ひとつない大空を仰ぎ、そして地平線の先にあるまだ見えない象牙の塔を睨み据える。

目指す場所は、螺旋城。
そして、天だ。

そのシモンの決意に満足そうな表情で、カミナは笑う。
大きく、高らかに。

『じゃあ、行け。シモン。お前にしか出来ねえことを、して来い』


「うん。おれ頑張るよ。ありがとう兄貴。そして、さようなら」














ふと自分の手の中に、柔らかな感触があることに気づき、吃驚して目を覚ましたシモンの目の前には、ふわふわと柔らかな綿毛のようなニアが、こちらをじっと見詰めていた。
どうやら、シモンより先に起きていたようだった。

「おはようございます、シモン」

ふわと、花が綻ぶ様に微笑み、ニアはシモンにそっと言葉をかける。

「寝ていて、苦しそうな表情をしていました。でも、途中から…」

そして空いている方の手がそっとシモンの顔へと差し伸し、眦に浮かんだ涙を指ですくう。

「泣いてましたけど… とても嬉しそうに笑っていらっしゃいました。シモン…良かったら教えていただけますか? あなたの…兄貴さんについて。私はとても知りたいです」

涙をそっとすくって来るニアの手を、シモンはそっと取り、自らの頬へと沿えて小さく頷く。
ニアにも救われていた。
兄貴だけじゃなく、シモンはニアにも救われていたのだと、改めて確認できた。















「うん。兄貴…ううん、カミナのことなら本当にたくさん話があるから…ニアにいっぱい話すよ。カミナのことを。俺とカミナの話を」

聖柩に眠る(大人シモン×カミナ)

薄暗い艦長室で、生命維持ポッドに眠る様に横たわっているのは、あの日、生命の灯火が呆気なく奪われてしまったカミナだった。
そしてそのカミナの眠る生命維持ポッドからは数え切れないほどの配線コードがのたうつ蛇の様に巨大なコンピューターに向かって繋がっていた。
戦闘を終え艦橋から戻ってきたシモンは、纏っていたマントをハンガーへ掛け、生命維持ポッドの前迄来ると、流れる様な手付きで巨大なコンピューターに接続されているキイボードを叩いて行く。
その表情は子供の頃の名残など一切ない、不敵な笑みを口元に張り付けた精悍な若者のものだった。

「兄貴、もういいよ。 起きて?」

そしてパスワード要求画面がモニターに現れると、自分達にとって大切な言葉を打ち込み、エンターキーを押した。



“んーー おはよう。シモン”

空気の漏れる音と、鍵の外れる音がしたかと思うと、生命維持ポッドのキャノピーがゆっくりと開き、眠っていたカミナが中からゆっくりと起きあがり、僅かに電子音混じりの間の抜けた声でそう伸びをしながら生命維持ポッドの中から出て来たのだった。


あの日、カミナは生命を失った。
それは誰にも曲げられない事実であり、そこにいた総ての仲間達を絶望の淵に叩き落としたのだ。
死んでしまった事を認めようとしない者達と、素直に受け入れ埋葬をしようとする者達の間で、リーロンだけが必死に、今自分が出来るだろう事を考え、ダイザンガン内なあった用途不明の謎の機械を利用して、冷凍睡眠装置を急ごしらえで造り『まずは埋葬せずに、眠っていてもらいましょう』と、提案をして来たのだ。
蘇生させる方法が見付かるまでの間、その冷凍睡眠装置でカミナの時を止める。
それは、リーロンとしては本当は一番したくはなかった行為だった。
リーロンの本音としては本当は、カミナをこのままずっと穏やかに眠らせて起きたかったのだが、二分した意見が延々と続けば、グレン団の士気にも関わってしまう為、会えてリーロンは外道と罵られようと、その方法を選択したのだ。
そして、ダイザンガンの機関室側にある巨大な保管庫に、その機械を移動させ、リーロンは何度も何度もカミナに謝りつつ涙をこぼし冷凍睡眠装置の中へと横たわらせた。
いつか平和な日々が訪れ、大きくなったシモンが、カミナを起こせる日が来る日を祈りながら。




しかしその後、再びダイザンガンは獣人達の手によって奪取され、その冷凍睡眠装置で時を止めたまま眠るカミナも同時に奪われる事となってしまったのだ。






「体調はどうかな、コンピューターとの接続具合とか」

シモンはカミナの顔を見ると、それまでの不敵な笑みを零していた口元が綻び、ギラついていた瞳が柔和なものへと変化する。

“大丈夫だ。 いつも通り気持ちよく目覚められた”

裸足でペタペタと歩く背後には、数本のコードが首筋から下がっており、そのコードは生命維持ポッドへと繋がっていた。

「ならいいけど。今日の戦闘は、結構長かったからね。兄貴に負担かかってないか心配だったよ」

ふわりと前髪を軽く手で掻き分け、それまでの険しい表情から一転、子供の頃の様な晴れやかな笑顔でカミナを見詰めるシモンは、サイドボードからブランデーグラスとボトルを取りだし、テーブルの上へ置いてロッキングチェアへと腰を掛ける。
いっぽうカミナは、接続されているコードのせいで行動範囲が決められているのか、普段シモンが眠るベッドへと腰をどっかりと下ろし、

“バカにすんじゃねえよ。俺を誰だと思ってんだ。処理能力は以前より、リーロンのおかげで50倍にまで跳ね上がったんだ。メインキャノンの砲撃角度調整だってめちゃくちゃ早かっただろ”

足を組んで、顎肘を突きニヤリと不敵な笑みを漏らす。
そして、右手の指で宙に何か文字を書くように動かすと、そこには先ほどの戦闘状況の結果が映し出され、敵戦艦の撃沈数と、この艦の被弾状態がグラフになって現れた。

“ほら、右舷45度からの攻撃があった時にな、実は直ぐ側まで敵の光学迷彩仕様の小型戦闘艦の接近があったんだわ。けど、それにブリッジの連中ギリギリまで気付いてなかっただろ。俺がアラーム鳴らさなきゃ、この艦風穴空いてたぜ”

チカチカと薄緑色と黄色、そして赤色のライトがそのグラフを照らし、カミナの言葉通りのデータが映し出され、そのデータを覗き込もうと、一口だけ口をつけたブランデーをテーブルへ置いてカミナの傍までやって来て、シモンは思わずぎょっとする。

“もっと副官を信用して、お前さんはドンと構えて指示してりゃいいんだよ。後は俺がフォローしてやるからさ”

その示されたデータのグラフで、この艦が今回の戦闘でどれだけ危機に晒されていたかが良く判ったのだ。
実際、艦橋を除いたいくつかのブロックがレッドシグナルを点滅させていた。

「兄貴の嘘つき。これの何処が大丈夫なんだよっ!」

点滅している箇所を指差し、シモンは思わず怒鳴る。
艦体が傷付けば、この艦の指揮系統から情報処理、装備仕様に関する総てを演算処理し管理しているメインコンピューターに負担が掛かるのだ。そして、そのメインコンピューターのアナライジング端末がカミナの身体であるのだから、その身体へと負荷は相当なものの筈だった。

“過負荷なんか掛かるような処理はしてねえよ。脳を焼き切れさせたくねえもん。流石に俺だって、自分の置かれてる立場くらい把握してんだから、心配すんなって”

カミナは、あの頃と寸分たがわない容姿のまま、そして口調のままそう言ってシモンの肩を軽くポンポンと叩が、その手はひんやりと冷たく生きているものの体温を一切感じないものだった。


あの日ダイザンガンを奪われた後、冷凍睡眠装置内で眠るカミナの存在に気付いた獣人の科学者達は、ダイザンガンの機能を更に向上させる為に、ニューロコンピュータ端末としてカミナの身体と頭脳を利用し、死者を冒涜する行為を行い、カミナの身体を改造してしまったのだった。
その為、カミナの身体は人としての機能を重視するのではなく、コンピューターと一部としての機能を特化した肉体へと変えられてしまい、普段は生命維持ポッドで20時間近く睡眠を必要とする人としては不自然なものになってしまった。

「兄貴…」

ひやりと冷たいカミナの身体を抱き締め、シモンはぽつりと呟く。
人とは言えない身体になってしまったカミナではあったが、シモンにとってカミナはいつまでたっても『兄貴』であり、大切な人なのだ。

“なんだ、シモン…”

抱き付いて来るシモンの頭をそっと撫でながら、電子音混ざりの声が静かにシモンを宥める。
その声に、昔のような熱さはない。昔のような熱さが失われた訳ではないのだが、システムの関係上、感情が余りに高まるとコンピューターの端末としての機能が阻害されてしまうせいで、人として本来あるべき感情の一部を削除されてしまっていた。
それはある意味、本来のカミナという人物の性質を永遠に奪われてしまったに等しかった。
だが、それでも人であった頃の記憶がそうさせるのか、そのコンピューターとしての機能を軽視し、暴走することも多く、矢張りそれはコンピューターとしてはあまり良い方向には働かず、本体に負担をかけてしまう結果となることも多かった。

「…あんまり兄貴が無理すると、俺心配で。幾ら、今の兄貴は昔と違うからって、それでも…」

しかし、今のカミナは死なない。
データさえバックアップされていれば、何度でも元に戻るのだ。コンピュータ端末の一部として、事故修復機能から修繕されるために。

“バカだなあ、シモンは。俺が大丈夫だって言ってんだから、大丈夫なんだよ”

ニヤと笑いながら、カミナは体温を感じない両腕で、そういいながらシモンの頭を掻き抱く。

「兄貴…」

そんな自分の頭を掻き抱いてくるカミナを、シモンはゆっくりとそのままベッドへと押し倒す。
はじめは、シモンの甘えから来た行為だったが、次第にそれは熱を帯びたものへと変わってゆき、気づけば二人の関係はより深いものへと進展していた。
信じられない行為ではない。
いつしか互いが求め合い、関係を結んでいたのだから。

ただひとつ言える事は、その行為自体は今の身体のカミナには負担でしかないのだ。
だがそれを、カミナはシモンへは告げなかった。




2人の間に阻むものは何もなく、ただ流れるは熱い吐息と大切なひとと触れあえていると言う高揚感に満ち、その触れ合う肌と肌、そして交わす口唇の熱さをカミナは確かめ、その熱に浮かされる様に互いの口唇を貪りあい続けていた。
歯列を割り侵入させた舌で、上顎からゆっくりと舌先で撫でるように愛撫すると、その刺激でカミナの身体が僅かに震え、おずおずと舌を自らの舌をシモンのそれへと絡める。
凍えるように冷たいカミナの身体が、シモンの体温で少しずつ温まり、それが本来の体温かのような錯覚に陥ってしまうほど、互いの肌の触れ合いは密接していた。

“シモン…ッ”

シモンから伝わる熱の熱さに、カミナは小さく喘ぎ身じろぐ。
そのカミナの反応にシモンの胸の高まりは更に激しいものとなり、カミナの首へと腕を絡め更に深く抱き締めた。
互いが互いの首を、頭を掻き抱く形になり、交し合う思いはさらに深いものへと変わってゆく。
そしてそのシモンの手の動きに反応するかの様に、カミナはゆっくりと手をシモンの背へ廻した。
そうする事によって、互いを阻んでいた不自然な距離はなくなり、口接けは更に深く交わされ、湿った音だけが2人の間にあった。

「…ッ」

長い口接けが続き、僅かに苦しそうに喘ぎを漏らすカミナは酸素を求める様に口唇を開くと、シモンもそっと僅かに口唇を離す。そして2人の間に銀糸が引き、それがカミナの顎から首へと伝い落ち、汗に濡れた肌がよりいっそう艶やかな色彩を放つ。

無理をさせられない身体ではあったが、どうしても欲しい時は、こうして身体を重ねあうことで、シモンとカミナは互いの想いを伝え合っていた。

「もう、これ以上は兄貴の身体に負担がかかる」

本当は、もっと抱きしめていたい。
本当は抱きしめて、もっと自分がカミナのことを本当に愛しているのだと伝えたかった。
しかし、それは叶わない「夢」でしかない。
カミナが、このダイザンガンのコンピューターの端末である限り。
シモンの体温が、カミナのコンピューターとしての機能を奪い、カミナの冷たい体が、シモンの体温を奪うのだ。

“済まねえ…な、シモン…もっと、抱きしめてやりたいのに…”

二人はそのままそっと身体を離し、シモンは再びロッキングチェアへ、カミナはベッドから起き上がると生命維持装置に繋がるポッドへと向かう。

「ううん… 俺は、こんな形でも兄貴が生きてここにいるだけでうれしいんだ… だから、気にしないで」

本来なら、もう二度と会えないのだと、抱き締められないと思っていたカミナとこんな形ではあれ、再びこうして一緒にいる事が出来るのだ。これ以上望む方が間違っている。
シモンはそう考えていた。

“シモンは、ヘンな所で生真面目だからな… 俺としてはもっと本心が聞きたいんだけどよ”

シモンの気持ちは十二分なほど判っていたが、それでも言葉で、態度で示して欲しいとカミナは思いつつ、自分を思い遣ってくれているシモンに対して感謝の言葉を続ける。今のカミナには、こんな言葉しかシモンへ伝えることが出来ない。以前ならもっと、態度で示せたのだけれど。

「僅かだけど、こうして要られる時間があるだけ俺は恵まれてるんだと思うから、兄貴には無理して欲しくないんだ」

僅かな時間しか起きていられないカミナのその大半は、普段ニューロコンピューターとしてのメンテナンスに割かれる為、実際こうしてカミナとシモンとして個人的に時間を割けるのは年間を通して数時間もない。
今回も半年以上ぶりに、こうして時間が取れたのだ。
次にこうして会話が出来るのはいつのことだろう。

“強くなった…な… シモン…”

カミナは振り返り、ロッキングチェアに座りブランデーグラスを手にしたシモンへ向けて、優しく嬉しそうに微笑むとそう言って生命維持ポッドの中へと入る。
そして装置内のランプがいくつか点滅すると、キャノピーが閉じ、カミナは静かに目を閉じた。



「強くなんか、なってない よ… 兄貴。 本当は…もっとずっと抱き締めていたいんだ。もっと、兄貴を感じていたいんだよ…ッ」

既に生命維持ポッドの中で、ダイザンガンのニューロコンピューターの役割を果たす為に再びコンピューターに接続され人としての眠りにつく
カミナを見つめ、ギリと口唇を噛み締め手にしたブランデーグラスを握り締めたシモンは血を吐く様な言葉でそう呟いたのだった。

そらいろのとき(カミナ×キタン(過去話)

「こんなはずじゃ、なかったんだけどなぁー…」

ぐったりとベッドにうつ伏せに横たわり、隣に座る藍に染められた刺青の入った大きな背中を恨めしげに眺め、ぽつりとキタンは呟いた。

「ああん? なんか言ったか?」

そんなキタンの呟きを聞いてか、その背中に藍の炎の刺青をした男がベッドに片手を突き、キタンの方へと振り返り覗き込んでくる。

「なんでも…ねえよ」

普段は人の話など聞く耳持たないといった風なのに、こういったときだけはちゃんと聞こえている相手に対して、キタンは少しだけむっとした表情をするが、そんな表情を見てその男はニヤリと笑い

「ま、気にすんな。なるようになっただけだ」

と、事も無げにそう言って覗き込んでいたキタンの顎を片手でひょいと軽く持ち上げ、軽く口接ける。

「…なッ!」

唐突な口接けにキタンは慌てて起き上がるが、昨夜の名残でまだ腰が痛むせいか、中途半端な起き上がり方をしてしまい、その男の額に頭突きする形になってしまい、その痛みで互いに突っ伏しつつ、二人は大笑いするしかなかった。

「そーいや、以前もこんなことあったよなあ」

キタンの頭突きを食らいズキズキする額を撫でつつ、笑いながら男は続けると、キタンは再び枕に顔を埋め突っ伏して

「言ってくれるなよ… 過去のことなんだからよ?」

と、涙目になった表情をその枕に隠した。








「とうさん…」

眼を真っ赤に腫らして、父親の去ってゆく背中を見つめ続けそれ以上言葉を続けられない自分を歯がゆく思っていた。
ついて行こうと思えばついて行けたはずなのに、一歩。躊躇したたった一歩が踏み出せず、結局父親の背中を見送ることになり、こうしてそれを後悔して今だここに立ち続けていた。
ついて行くか、ここに残るかを、自分の意思で選択させた父親の思いは、幼いながらも十二分に判っていた。自分の意思を尊重させてもらえたのだ。それはとても嬉しいことだったのに。

「おいていかれたんじゃない。ついていかなかったんだ…」

ずずっと鼻を啜り、泣き続けて真っ赤になった眼を手の甲で拭い、元いた村へ戻ろうと踵を返す。
多分、以前のように村の人たちは自分に接してはくれないだろう。
愚かな父親に置いていかれた、哀れな子供として色眼鏡で、奇異な眼で見られるだろう。
幼いながらカミナは、そこまで考えていた。

「…ぐすっ」

ごしごしと眼を擦り、キッと沈んで行く真っ赤な太陽を睨みつける。
だからこそ、強くならなくてはならない。
誰に罵られ様と、誰に貶められようと毅然とした態度で、確固たる強い意志で自分を貫いていかなければ、まだまだ本当は誰から守って貰いたい弱い自分は頽れてしまうに違いない。
カミナはそう思い、この赤い大地、地上に今までの弱い自分を捨てて行く覚悟をしていた。

「おい、こんなところでどうした? こんな時間にあぶないぞ」

ふと、突然背後から不思議な毛むくじゃらな生き物に乗って現れた、短く刈った金色の髪の少年が自分に向けと問いかけてきた。

「…ッ」

突然背後から声をかけられ、吃驚して飛び上がるように振り返ったカミナは、毛むくじゃらな生き物の上から自分に声をかけてきた少年を凝視する。
見たこともない黒い衣服に身を包み、傷だらけの腕を惜しげもなく晒け出したまま、自分へ向けてその手を差し伸べて来たのだ。

「ここは、あぶないからどこかちがうところへ行かないと。これからどんどん気温下がるし、夜活動するケモノもあらわれて、おれたちみたいにちっこいのはいいエモノになっちまうぞ」

黒衣の少年はそう言ってカミナの手を握り、ぐいっと引っ張って自分の乗るその毛むくじゃらの生き物の上へ乗せる。

「こいつは走るのがはやいんだ。ちょっとやそっとくらいじゃそこらへんのケモノは着いてこれねえ」

そう言って少年は手綱を握り、その生き物を走らせようとする。

「あ…ッ ちょっと待って。もう…帰るから村に…ッ」

カミナは強引に生き物の上に抱えられるようにして乗せられ、更にはここから去ろうとする黒衣の少年の行動力に慌て、先ほどまで泣いていた自分を忘れていた。それほどまでに、その少年はさり気ない強引さでカミナを引っ張っていたのだ。

「村が近くにあるのか。じゃ、そこまでおくるよ。歩いて帰るとあぶないからな」

黒衣の少年はそう言ってカミナにニコッと笑いかける。
自分と同い年くらいなのに、この少年はもう一人でこの地上で立って歩いているのだ。
カミナはそう思うと恥ずかしくなり、少しだけ俯いた。




そんなに遠くはない村への入り口へ向かう途中、金色の髪の少年は、初めて乗るだろう毛むくじゃらの生き物のスピードを手綱で調整して
、ゆっくりと進めつつ大人しくしているカミナに向かって色々問いかけてきた。
真っ赤な太陽が沈む、真っ赤な大地をキョロキョロと忙しなく不思議そうな表情で眺めるカミナの仕草を見つめ、金色の髪の少年の頬は僅かに朱に染まる。
僅かに吊り上りながらも全体的に垂れ気味の眉根と、それに比例している大きな瞳の垂れた眼は、見た目は穏やかそうに見えつつも、どこか芯がしっかりしていそうなムードを醸し出しており、ちょうどその少年の淡い恋心を擽るルックスであったのだ。

「こんな生き物にのるの、はじめてだろう? 地上にしかいない生き物だから地下に住んでたら、知らないもんな」

毛むくじゃらの生き物のことを示しながら、金色の髪の少年がそう言うと、

「うん。はじめてみた。すごいおおきいね。ブタモグラとおなじくらいだ」

カミナは、少年の言葉に頷きつつ、毛むくじゃらの生き物に掴まりながらその長い毛を撫でる。

「きみは、ひとりでここにいるの? さびしくない?」

毛むくじゃらの生き物を撫でながら、少年がひとりで自分の前に現れたことに対して疑問を抱いたため、ふとそう問いかけた。

「ひとりじゃないさ。妹たちと、おれたちを養ってくれてるオアシスのじじいたちがいるからな…さびしくなんか、ないさ」

カミナに問われるまま少年は、そう答えふと遠い目をして鼻の下を人差し指で軽く擦った。

「…おれたちの村は獣人に焼きうちされたんだ。もう、おれたちの村はどこにもない。生きのこった大人も子供も、この広い大地にちりぢりになって…いつか村をおそった獣人たちをやっつけるために、戦ってるんだ…」

金色の髪の少年の声に、何処か湿り気を感じカミナは俯く。
聞いてはいけないことを聞いてしまったのかもしれないと、感じたのだ。

「おまえが気にすることじゃないさ。おきちまったことは、くつがえせないからな。けど、やられっぱなしはおれたちの性にあわねえ。だから戦ってるんだ」

俯いたカミナに気づいた少年は思わずそう言うと、ヘラリと笑ってカミナの頭をぽんぽんと軽く叩く。
少年は、強かった。同じくらいの年恰好なのに、こんなにも自分とは違う。
カミナは恥ずかしくなってしまった。

「…そのうでのキズも…その時にできたの? ひどいキズ…痛いよね?」

陽に焼けた傷だらけの腕を惜しげもなくさらけ出し、その手をカミナに差し出してきた時の事を思い出し、ふと聞いていいことなのかどうか不安ではあったが、問いかけてみた。
自分にも必要な強さを、知りたかったからかもしれない。

「あ、これか? うん。今はもう痛くなんかねーよ。死んだかあちゃんが受けたキズとくらべたら、ちっちぇえもんさ…。 かあちゃんは… かあちゃんはな… おれをかばってずーっと抱きしめてくれてたんだけど、手だけはかばいきれなくて…さ、獣人たちが…こん棒や斧でかあちゃんを…」

そこまで少年が言うと、カミナは振り返りさっきまで泣いていた真っ赤な眼で

「ごめんなさいっ! もういいよっ! そんなつらいこと思いださせちゃって…ごめんな…さ…ッ」

と、少年の身体を抱きしめた。

「どわわわわわ…ッ! き…っ 気にするなってばッ! かあちゃんは、子供のおれのことを大事にしてくれてたからおれをかばってくれたんだし… だからおれはかあちゃんととーちゃんの分までがんばって生きないといけないんだから。おれは、そんなかあちゃんととーちゃんみたいに、自分以外のだれかをまもってきたいって思ってんだ」

抱きついてきたカミナに一瞬驚いてしまい、思わず顔を真っ赤に染めながらも、親によって大切に守られた分、今度は自分が誰かを守れる存在になりたいのだと心に誓っていることを告げた。
多分、少年もその心のうちを初めて他人に語ったのだろう。そう言葉にした途端、恥ずかしそうにカミナから顔を背けた。

「えらいな、きみ…は …とはおおちがいだ」

カミナは顔を背けた少年の眦に、涙が薄っすらと滲んでいるのに気づかない振りをして、ぽつりと呟く。

「そんなこと言うな。おまえもこれから強くなればいいじゃんか。まだまだおれたちにはでっかいかのうせいがあるんだからなッ!」

そんなカミナの小さな呟きを少年は聞き漏らさず、毛むくじゃらの生き物を歩かせていた手綱を止め、ふいに抱きついて来ているカミナの前髪をサラリと掻きあげる。
すると俯いていたカミナは、きょとりとした表情で少年を見上げてきた。
カミナの眼は、少年が今まで見たこともないほど大きくて真っ赤な眼で、その眼が自分を見つめてくるために少年の胸の鼓動が激しく高鳴り。

「ちゅっ」

と、その額にキスをしたのだった。







「真逆、あン時のかわいい子が、きさまだなんて、誰が思うよッ」

枕に顔を突っ伏したまま、不貞腐れた表情でキタンは続ける。

「か弱そうで、守ってあげたくなるような女の子だと思ってた子が、こんなでけぇ態度の人の顔も名前もちっとも覚えねぇドアホの男に育つと、誰が信じるよ。まったく詐欺だぜ、詐欺」

ぶつぶつとキタンは呟きつつ、ぼさぼさの太陽に褪せた短く刈りあげた金髪をバリボリと掻く。

「なーに言ってんだか。そっちが勝手に勘違いして妄想しちまってたんだろうが。俺のせいにすンなっての」

一方カミナも昔のようなふわふわの長く青い髪の面影が僅かに残る前髪を軽く掻き上げて、そうごちると、大欠伸をしてごろりとキタンの横へ横たわる。
あの時は、マントを纏っていたためにキタンは気づかなかったが、既に物心がついた頃にはカミナの上半身には藍に染め上げられた刺青が彫られていたのだという。
それが何を意味しているかなど今のカミナには判らないし、それを言うようなものでもなかった。

「つーか、そんなお前にホレた俺がバカなんだけどよー…」

突っ伏していた枕を両手で抱きしめ、横目でチラリとカミナを見やりつつ、まだ何か言葉を続けたいが続けられないでいるキタンは大きく溜息を吐いた。
それは、青空を染める空色のように、カミナの存在はキタンの心の中の大半を占めているのだと、本人はきっと少しも感じていないのだろうという、半ば諦めにも似た溜息だった。

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