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ゆきて かえらぬ こどくの みちへ(イルム×イングラム)

鏡の前で、黒く染められた髪を後ろで編んで束ね、カラーコンタクトを入れてから念を押すように黒いサングラスを掛ける。
「じゃ、行ってくるから。旺角電脳中心(ウォンコディンノウジョンサム/ウォンココンピュータセンター)にある、ジャンクパーツ屋を一通り見てくればいいんだな?」
台所と洗面、更にはシャワールームとトイレが一緒くたになった小さな部屋から、大声で隣の部屋にいる同居人に対してそう話し掛けた。
「…五月蠅い。そんな大声を出さなくても聞こえている。」
もぞり・・・と、狭い部屋に置かれた小さなベッドの上で、窓から入ってくる朝日を避けるようにしてシーツを被り、丸々38時間振りに取れる睡眠を妨害して来る傍若無人な相手に向かって抗議の声を上げる。
「だって、寝てるみたいだったから大声で言ってやったんだぜ、目が覚めただろ?イングラム。」
サングラスを少しだけ下げ、ひょいと隣の部屋を覗き抗議をして来る相手に向かい、そう言いながらペロッと舌を出す。
するとベッドの上でシーツを被っていた、イングラムと呼ばれた男は、
「馬鹿が。いつになれば覚えるのだ。此処での私の名前はイングラムではなく、葉飛星(イップ・フェイ・シン)だと言っただろう。いい加減覚えろ。」
と、眉間に皺を寄せ、只でさえ一昨日からの睡眠不足でくたくたになっているのにも関わらず、帰宅早々ベッドの上で一汗流させられたのだ。機嫌も悪くなるだろう。
「えー?いいじゃん。この部屋にいる時だけはプライベートなんだぜ。監視されず、自分達の時間を確保したかったから、こんな下町の2Kのちっせぇ部屋を借りたんだんだから、部屋にいる時くらいちゃんとお互い本当の名前で呼んだっていいだろー?」
壁に背を凭れ掛けさせ、葉・・・イングラムに向かって反対に抗議を仕返したのだ。
「…イルム…貴様は、この1ヶ月の間、何をして来たのだ?まだ暫くは此処に居なければならないと言うのにも関わらず、のほほんと…。」
イングラムは思わず頭痛がする・・・といった風に、人差し指でそっとこめかみを押さえる。軍人として、部下としては非常に優秀なイルムガルトではあったが、どうも人格と言うか感情の一部分が欠落した部分がある様だった。
何処が、と問われると少々回答に窮してしまう。
だが、彼の生い立ちの事を考えれば、否めなくもない。
それに、自分だって人として欠落している感情がある事は判っているので、今更指摘する様な事でもないと、も思っていた。
「あんただって、俺の事イルムって言ってるじゃん。俺の名前は、郭耀黎(クォック・イウ・ライ)だぜー。」
イルムは、イングラムが何を考え、何を感じているかなど何処吹く風、といった風にそう言ってケタケタと笑う。矢張り、精神のバランスが崩れて来ている様だった。

実際あの事故以来、イルムの精神は短期間で躁と鬱を繰り返していた。

勿論、その原因の一端は、コピーの肉体にオリジナルの頭脳と、生体コンピュータの移植なのだろう。その、生命体として不自然な状態に置かれているイルムの、心と身体に掛かる負担は計り知れない。
更には、その不自然な存在を維持する為に、免疫抑制剤や調整剤等の薬品を過剰に投与、摂取し続けなくては、生きては行けない身体になってしまったと言う事実。
それら総てが、イルムの精神を肉体をじわじわと追い詰めてゆく原因だった。
不自然な状態の肉体を、薬物摂取と言うかたちでねじ伏せ維持させている間はいい。
だが、もしそれすらも不可能になったとしたら?
いや。だからと言って、イングラムに何が出来るのだろう。
所詮、イルムは自分の手駒のひとつであり、それ以上でもそれ以下でもないのだ。

壊れてしまえば、廃棄してしまえばいい。
その条件を納得して、イルムは自分の手を取ったのだ。
ふたりの関係は、その程度のものであったはず。

イングラムは、台所の壁に背を凭れ掛けさせているイルムを眺めつつ、そんな思考に入り込んでいた。その姿は端から見れば酷く気怠げで、ベッドに寝転がり軽くシーツを羽織ったまま、頬杖を突いていたのだ。
緩やかなウェイヴの長い藍色の髪が、男性にしては似つかわしくないほどの白い肩に掛かり、それが皺だらけのシーツへと流れている。
「何見てんだよ。…そんなに俺はイイ男かぁ?」
ほんの数時間前まで行っていた情事の事など忘れてしまっているかの様で、イルムは軽く躁の状態に入っている事が見て取れた。いつもそうだ。
仕事を始める前、イルムはいつも躁状態になる。
「何、寝ぼけた事を言っている。いいか、ジャンクパーツ屋だが、旺角電脳中心の地階にある、阿哥張電脳醫院(チャン兄貴のコンピュータ病院)へ行くんだ。そして私の名前を出せば、DCからの流出品であるニューロチップが手に入る。」
勿論、躁状態だろうと鬱状態だろうと、仕事に支障さえ来さなければ、イングラム的にはどの様な状態だろうと気にはしなかった。
「へいへい、判りやした。んで、当然キャッシュなんだろ?…んー、金下ろしてかないとねーな…。」 
イングラムの言葉に、イルムはジーンズのポケットから財布を取り出し、現在の手持ち金を調べる。100香港$が4枚、200香港$が1枚、500香港$が1枚と多少の小銭があるだけだ。これではとても、闇ルートで流れるコンピュータの部品など買えない。
「近くに…恒生銀行が…あるだろうが?そこで…下ろしてゆけばいい。」
流石にイングラムも、睡魔と疲労には勝てなかったのか、次第に声のトーンが落ちだし、頬杖を突いてイルムを眺めたまま、とろとろと眠りに入りだしていた。
「あ、そうそう。冷蔵庫壊れたから、今日の食事は近所の餐廳(チャンティン/食堂)になるけど、いい?」
と、突然イルムは思い出したかの様に、そんな事を言いだした。
「…?」
半分眠っている頭でイングラムはイルムの言葉を聞いていたが、暫くして、
「どういう事だ?何故、冷蔵庫が壊れる?」
そう言って飛び起きた。
それもその筈。冷蔵庫やその他の電化製品は総て、此処に来てから買った物だったからだ。
まだ、1ヶ月しか経っていないのに、そうも簡単に電化製品が壊れるとは思ってもみなかった。
「…えーと、ほら、コンピュータ買うのにお金掛けて、その他の電化製品は中古を買ったからさ…そのせいじゃないかなーって…。」
そんなイルムの科白に、イングラムは思わず頭を抱える。
別に中古の電化製品を買った事に対しては何とも思わない。
一時的に必要なだけであって、いつまでも此処で生活する訳ではないからだ。
だが、イルムに生活必需品を買い揃えさせる事が間違っていたのか・・・。
尽く問題を生むイルムに対し、頭が痛くなったイングラムは、ふと、自分が冷凍庫の中に買い置きしていたものを思い出す。
「…ちょっとまて。冷蔵庫が壊れたのは何時頃だ?」
普段は沈着冷静なイングラムが、珍しく慌てた様に立ち上がるとハンガーに掛けてあったシャツを取り羽織る。
「んーー、あんたが帰ってきた時には既に壊れてたからなー。」
のほほんとした口調の、イルムのその物言いに
「き…貴様と言う奴は…本当に…っ!」
イングラムは思わず拳を振り上げそうになってしまった。
「なっ…なんで、たかがそんなことで怒るんだよっ!らしくねーぞっ!」
反対にイルムの方はと言うと、そんなイングラムの仕草に機敏(?)に反応し、思わず両手で頭を抱え、身体を縮こめて抗議するのだった。
「…冷凍庫に…ハーゲンダッツのチョコミントが入っていたんだ。尖沙咀(チムサツョイ)にまで買いに行ったのだぞ。」
生活必需品から嗜好品まで、軍の宿舎で生活している時は大体の物が破格の値段でPXで揃う為に、さほど考えた事などなかったのだが、こうして外で生活してみると、嗜好品一つ購入するだけでも手間もお金も掛かる。
「あー?なに贅沢してんだよ、近所のコンビニで買えよ、アイスくらい。」
コンビニで買えばアイスなどコイン一つで事足りるのだが、ハーゲンダッツとなると、そうは行かない。
ケタが変わるのだ。そんな高いものを、更にわざわざ尖沙咀にまで買いに行くとは。
イルムは思わずムッとしてしまった。
「それに、どうせイングラムの事だ。地下鉄に乗って行ったんだろ。幾ら研究所から支給されてるカード使って地下鉄に乗ってもな、使った分は申告しなくちゃならねーんだ。それを判ってんのかなあ?もう。」
サングラスを少しだけづらし、じいっとイングラムを睨み付ける。
これでは、いったいどちらが上官なのか判らない。
自分達は今、如何にも指令を受けて行動しているかの様に一時的に軍から離脱しているのだが、それは飽くまでも軍のデータを改竄して行っている事で、実際はそんな指令は受けてはいない。
更には、自分達が動くための資金だってそうだ。
ナイメーヘン時代に培った交友関係を利用し、軍で動かせる資金の一部のデータを足跡が残らない様に操作し、それを地下銀行に移動させる。そんな手間の掛かる手順を踏んで入手した資金だって、無限にある訳ではないのだ。
「…たかがアイスではないか、そんなに目くじらを立てなくてもいいと思うのだがな。それに地下鉄だってほんの5区間。それよりも、値切って購入した中古冷蔵庫の故障の方が問題だとは思わないのか。」
寝乱れた緩やかな巻き毛を手櫛で整えつつ、ムッとした表情でイルムを見つめる。
はっきり言って、イルムの方もイングラムがこんな人間だったとは、こうして一緒に生活をするまで知らなかった。
いつも高みから見下し、冷徹な判断と的確な行動力で、自分達に指令を下している人物が、実は非常に甘い物を好み、自分の眼鏡に適った菓子があれば、其れこそ手段の為なら目的すら辞さない程だったのだ。
「ンな事言ったってよ…、始めはあんただって賛成してくれただろ?余分な処で金は使えないって。だから…っ!」
そんなイングラムの物言いに、思わずイルムは声を荒らげてしまう。
どうも此処、香港に来てからというもの、どうも主導権をイングラムに取られがちだったイルムとしては少々面白くなかった。 
勿論、元々イングラムの部下なのだから当然と言えば当然なのだが、始めは一般的な生活能力が全くと言っていいほど無かったイングラムを、此処まで更正(と言うのだろうか)させたのはイルムの努力の賜物だった。それがどうだ。
自分がイングラムを振り回していたはずが、今では反対に振り回されている。
「…言ったには言ったがな、粗悪な中古品を買えとは言ってはいなかったはずなのだが。」
冷蔵庫としての役割を果たさなくなってしまった物体の前まで来て、イングラムは大きく溜息を吐きながらそのドアを開ける。
季節が季節なだけに、冷蔵庫の中身は無事だったが、冷凍庫に仕舞ってあった物は全滅を免れないだろう。
「もういい。貴様に任せた事が間違いの元だった。優秀な遺伝子を組み込んで造られたワリには、どうやらそれが普段の生活に生かされていないみたいだからな。」
冷蔵庫の背面に廻り、イングラムはコンセントを抜きながらイルムに対して嫌味の一つでも言わずにはいられなかった。疲れて帰って来たというのに、ベッドの上で一運動させられ、昼過ぎになって漸く眠れると思った矢先にこれだ。
イングラムの態度は当然だった。
「差別すんなよ。こんな俺でも、傷付きやすいんだぜ。」
そう言いながらイルムは大仰な仕草で訴えるが、イングラムはその訴えを軽くあしらうかの様な態度を見せる。
それは、まるで犬でも追い払う様な仕草だった。
「そんな処でいつまでもウダウダしているな。とっとと、自分に与えられた仕事をして来い。たかが“お遣い”なのだ。それくらいは出来るだろう?」
そんなイングラムの物言いに、イルムはむっとした表情をするが、その言葉に対して反論が出て来なかったのか、
「…行ってくる。」
と一言だけ言うと、部屋から出て行ってしまった。


旧暦から建っているだろう、彼等の住む大厦(マンション)は、地上9階建ての8階に部屋があり、1階から3階までは小さなショップが入っているのだが、それ以上の部屋は半分以上が空き部屋で、更にはエレベータも無いものだった。
旧暦時代に中国へ返還され、一時的に過去と同じ程度にまで栄華を誇る事の出来た香港だったが、新西暦になり、各地で再び戦争や抗争が勃発する様になってからと言うもの、政治的難民の急増で香港はスラム化の一途を辿っていた。
とは言え、地形的にも主要各国の軍事中継港として充分に機能を果たす為に、酷く矛盾を抱えた街でもあったのだ。
「おや、出勤かい? 阿郭(クォック兄さん)」
彼等の住む大厦(マンション)の1階部分は、小太りした気の良さそうな阿婆(お婆さん)が独りで経営している、間口僅か一軒弱の果汁舗(グォッジャップポウ/ジューススタンド)があり、イルムはいつも出勤前にそこでジュースを一杯飲んで行くのを日課としていた。
「ううん、今日はお休みだよ。でもちょっと買い物があってね。あ、竹蔗汁(ヂョッヂェジャップ/砂糖黍ジュース)の細杯(サイブイ/スモール)頂戴。」
と、イルムは傘立ての様な容器に入っている砂糖黍を指差す。
「あいよ。」
そうすると、阿婆はその砂糖黍を一本取り出すと、鋏で適当なサイズに切り、手動の絞り機に詰め込んでハンドルを回す。そして安っぽい紙コップに絞りたての竹蔗汁がなみなみと注がれるのだ。
イルムはこの果汁舗で、色々なジュースにチャレンジしてみたが、この少し埃っぽい臭いのする竹庶汁が一番好きだった。
「多謝(ドーヂェ/ありがとう)。」
にっこり笑って、イルムは小銭を阿婆に渡す。
「そうそう、さっき同屋住(トンオッジュー/同居人)の阿葉(イップ兄さん)が帰ってきたみたいだけど、あんまり顔色良くないねぇ。身体に気を付けるように言っときなよ。あんたと違って凄く真面目そうだからね。」
小銭を受け取りながら、阿婆はそう言って笑う。
「酷ぇなあ、阿婆。俺だって、仕事は真面目にやってるよ。」
「あっははは。仕事だけかい。流石だねえ。」
と、イルムは此処でいつも他愛の無い話をしていた。何故かは知らないが、此処の阿婆は彼等の事を気に掛けてくれているせいかもしれなかった。
「じゃ、俺ひとっ走り行って来るから。また後で。」
飲み終えた紙コップをごみ箱に捨てながら、イルムは阿婆にそう言ってその場を去って行く。急いでいる訳ではないのだが、こんな処で油を売っているとイングラムにまた何を言われるか判らないからだ。


多分、此処香港での生活もそう長くは無いだろう。
必要な情報さえ入手出来れば、此処に長居する理由は無いのだから。
そしてその時、イルムはイングラムと決別する。
イングラムは軍へ戻り、イルムは工作活動に入るからだ。
此処での諜報活動は、その為の下準備でしかない。

自分を生み出した父親や研究所、そして自分が今、所属する軍すらも捨てて、イルムは自分の意志で初めて歩き出したのだ。
自分の為に敷かれたレールから外れて。

だからこそ今、此処で生きている自分を楽しもう。
僅かに残された時間を、有意義に過ごそう。
此処から先は、孤独との戦いになるだろうから。


イルムはそう思っていた。  
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